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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第1章 時代を駆け抜けた5年間(9)最期の地 今も訪ねる人々

湊川神社の境内にある殉節地(史蹟・楠木正成戦没地)=神戸市中央区(恵守乾撮影)
湊川神社の境内にある殉節地(史蹟・楠木正成戦没地)=神戸市中央区(恵守乾撮影)

 ≪弟と自刃≫

 九州から京都に進軍する足利尊氏(あしかがたかうじ)の軍勢50万騎に対し、700余騎で挑んだ楠木正成(くすのきまさしげ)の湊川(みなとがわ)の戦いは約6時間にも及んだ。正成の手勢は70騎余りに減り、正成も11カ所に手傷を負った。死を覚悟した正成は民家に入り、弟、正季(まさすえ)と自刃(じじん)した。

 この際の兄弟の会話は、後に「七生報国(しちしょうほうこく)」(七度生まれ変わってでも国を守る)となる「七生滅賊(めつぞく)」(七度生まれ変わってでも、朝敵を滅ぼす)という言葉を生んだ。正成の最期は、天皇に忠義を尽くして国を守るのが武士(もののふ)の大義として、時代を超えて広がっていく。

                  

 湊川神社(神戸市中央区)の北端、クスノキが生い茂る一角に、白いしめ縄で囲まれた場所がある。湊川の戦いで敗北を覚悟した正成が、弟、正季と自刃した場所「御殉節地(ごじゅんせつち)」だ。「七生滅賊」という言葉が生まれた場所でもある。

 『太平記』では、最期を迎えた正成が「九界の中には、いづこをば御辺(ごへん)の願ひなる(九界のうちどこに生まれ変わりたいか)」と問いかけ、正季が「七生までも、ただ同じ人界同所(にんがいどうしょ)に託生(たくしょう)して、つひに朝敵をわが手に懸(か)けて亡ぼさばやとこそ存じ候へ(七度生まれ変わっても人間界で朝敵を倒したい)」と答え、刺し違えて果てたと伝えている。

 御殉節地には今も1日20、30人の老若男女が訪れ、手を合わせる。正成が戦場を駆け巡ったのはわずか5年ほどだが、没後680余年もの間、多くの日本人の心に住み続ける。理由の一つが死に対する姿勢であろう。

 河内(かわち)(大阪府)での赤坂城や千早(ちはや)城の戦いで、知謀に富む戦略で後醍醐(ごだいご)天皇に尽くしながらも、策を拒否された正成。『太平記』はこのときの正成の様子をこう書く。

 〈「この上は、さのみ異儀を申すに及ばず(中略)討死(うちじに)せよとの勅定(ちょくじょう)ごさんなれ。義を重んじ、死を顧みぬは、忠臣勇士の存ずる処なり」とて、五百余騎にて都を立つて、兵庫へとてぞ下りける〉

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