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【話の肖像画】NIEコーディネーター・関口修司(63)(2)手塚治虫に“突撃取材”

 〈東京都新宿区で青果店を営む家に生まれ、10人の大家族で育った。小学校3年生だった昭和39年には東京五輪が開催され、その熱狂を間近で感じた。中学3年生だった45年には、大阪万博が開催され、修学旅行専用の「ひので号」に乗って大阪、京都に行き、太陽の塔を間近に見た。高度経済成長期とともに歩んだ人生だ〉

 実家は新宿の西落合にあって、東京と言っても当時はまだ不便な地域で緑が豊かでした。東京五輪のときには、まだ高い建物も少なかったので、店の前からブルーインパルスが五輪の輪を空に描くのがはっきり見えましたね。競技は見に行けなかったのですが、テレビにかじりついて見たバレーボールやマラソンの円谷(つぶらや)幸吉選手、重量挙げの三宅義信選手が印象に残っています。

 〈当時、自宅近くの東京都豊島区南長崎には手塚治虫や藤子不二雄、石ノ森章太郎ら著名な漫画家が居住していた「トキワ荘」があった。マンガに夢中になっていた小学生時代、果敢にも手塚治虫に直接会いに行った〉

 本を読むのが嫌いで、マンガが大好きでした。家の前にあった薬局には、毎週決まった日時に少年サンデーと少年マガジンが軽トラックで運ばれてくるので、待ち構えて買っていましたね。

 5年生のときに「マンガクラブ」に入りました。とくに手塚治虫、横山光輝、石ノ森章太郎、ちばてつやらが好きで、夢中になってまねをして描いていました。

 6年生の夏休みにマンガクラブの友人3、4人と電車に乗ってアポなしで手塚プロダクションに行ったんですよ。「手塚先生に会いたい」とアシスタントにお願いしましたが、もちろん門前払いです。仕方なく帰ろうとしたら、階段の上から手塚先生が「どうしたんだ」と声をかけてくれて。「いいよ。ファンの人なんだから通してあげなさい」と仕事場に入れてくれたのです。僕にとっては神様でしたから本当に夢のようでした。

 手塚先生は「締め切りが過ぎているから話はできないけど、マンガを描いているのを見ていきなさい」と言ってくださいました。当時のサンケイ新聞で連載していた4コマ漫画の「鉄腕アトム」でしたが、下書きをしないでペンで美しい線を描いていくのを見て感動しました。

 編集者の人も来ていて、「先生、締め切りが過ぎています」と何度もつぶやいていました。時間がないのに自分たちが描いたマンガも見てくださいました。下手なのは自覚していましたが、いいところを見つけてほめてくださったことが今も心に残っています。

 帰りにアシスタントの方が、虫プロダクションに連れていってくれ、「ジャングル大帝」や「ワンダースリー」といった手塚アニメのセル画を何十枚ももらって帰りました。夏休み明けに学校で自慢したら一時、人気者になりました。気前よく友達にあげてしまって、手元には1枚しか残っていません。(聞き手 大渡美咲)

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