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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第1章 時代を駆け抜けた5年間(8)不利でも最善の策を練る

会下山=神戸市兵庫区(恵守乾撮影)
会下山=神戸市兵庫区(恵守乾撮影)

 ≪湊川の戦い

 桜井の宿(現大阪府島本町)で嫡子・正行(まさつら)を河内に帰して後顧の憂いを断ち切った楠木正成(くすのき・まさしげ)は、精鋭700余騎を率いて湊川(現神戸市)に出陣した。正成は、勝機を逸して足利尊氏(あしかが・たかうじ)の復活を許し、意気消沈している官軍の総大将、新田義貞を励ました。「御沙汰(ごさた)の次第、一々その道に当たつてこそ存じ候へ」。命令のすべてが合戦の道理に合っていると言われた義貞は戦意を取り戻す。官軍は5万、足利軍は50万と『太平記』が書く両軍の決戦は、正成が先陣を切る形になった湊川の戦いで戦端が開かれる。

                  

 「寡(か)をもって衆を制す」

 知略、奇策を駆使して敵の虚を突き、少数の兵力で大兵力を打ち破る武将が、日本人は好きだ。一ノ谷の戦いで70騎を率い、断崖絶壁からの奇襲で平家軍を打ち破った源義経しかり、桶狭間の戦いで今川義元の大軍を奇襲攻撃で破った織田信長しかり、関ケ原の戦いや大坂の陣で徳川方の大軍を最後まで苦しめた真田昌幸・幸村父子しかりである。

 鎌倉幕府の大軍をわずかな手勢で金剛山周辺にくぎ付けにし、幕府崩壊のきっかけをつくった楠木正成もその範疇(はんちゅう)に入る武将であることは間違いない。しかし、正成を祭る湊川神社(神戸市中央区)の垣田宗彦宮司は、こう断言する。

 「意表をつく戦術や時代の流れを読み取る先見性など、名将として必要な要素は正成公も当然、そなえていた。しかし、正成公が他の名将とされる人物と一線を画すのは、その精神性にこそある」

 後世に及ぼした影響という点からいえば、他のどの人物よりも強いインパクトを与えた将として、人々の脳裏に刻まれているという指摘である。

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