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【話の肖像画】元日銀副総裁・ジャーナリスト 藤原作弥(82)(8)「米駐日大使人事」で特ダネ

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 昭和37(1962)年に、記者になって、やりたかったのは「映画評論」。もうひとつ、時事通信を選んだ理由は、通信社で外国へ行けるチャンスが多いと思ったからです。だから、第1希望は文化部、第2希望が外信部。ところが、研修後に配属されたのは、まったく希望していなかった経済部。数学がダメで東京外大に入ったのに、また、数字(為替など)との格闘でしょう。まったく面白みを感じられずに、もう辞めようとさえ思いました。

 そんなときに命じられたのが、大蔵省(当時)記者クラブ詰め。高度経済成長時代のまっただ中で“大蔵主導”と言っていい世の中でした。次第に、数字は面白くないけど、予算は、人間生活のあらゆる面を数字で表すことなんだと分かってきました。文学と同じだ、バルザック(仏作家)の世界じゃないか、とね。最初の蔵相が田中角栄、後に福田赳夫(たけお)と、対照的な政治家だったことも面白かった。特に福田さんとは親しくなって、私と同じ“双子の親”だった(福田の)女婿の越智通雄(みちお)さん(元経済企画庁長官)から、当時日本にはなかった「双子用の乳母車」を譲り受けたことも。記者懇談の席で福田蔵相から「孫の乳母車」の目録贈呈式までやるハメになって、他社の記者からは癒着(ゆちゃく)ではないか、って顰蹙(ひんしゅく)モノでしたけど。

 《カナダのオタワ特派員を経て、昭和43(1968)年から、米ワシントン特派員(経済担当)に。「政治(対中政策の変更)」と「経済(ドル=金の交換停止など)」のニクソン・ショック(46年)などを取材する》

 対日問題でも沖縄返還、日米繊維交渉…と激動の時代、私は経済担当ですが、時事通信のワシントン支局は3人しかいないし、最年少ですから、どんな取材にも駆り出されました。

 忘れられない思い出が、44年、米国の次期駐日大使人事の特ダネを抜いたことです。折しも、民主党政権から、共和党のニクソン政権に代わったとき、私は、ホワイトハウスや国務省に足しげく通い、情報を探っていました。ある日、ジーグラー大統領報道官を会見の後に直撃すると、「決まったよ」と片目をつぶったではありませんか。スワっ、とばかりに、議会要人に電話をかけまくりました。

 そのうちの一人、共和党上院院内総務のダークセン議員が運良く、電話口に出てくれました。そして、すんなり「はい、昨日大統領から電話があったよ。新しい大使は、アーミン・マイヤー氏(昭和44~47年、米駐日大使)だ」と教えてくれたのです。ただし、日本とはあまり縁のない人で下馬評にはまったく挙がっていません。ダークセン議員は、私に、ひとつひとつスペルまで教えてくれました。後で、2人は同郷の仲だったと分かります。

 特ダネ原稿を書いて東京へ送ると、支局に他社や駐米日本大使館から、ジャンジャン問い合わせの電話がかかってきました。「時事が(記事を)打ってきたけど、ホントか?」というわけです。支局長から命じられて私は慌ててバーに雲隠れ。1人で「祝杯」をあげました。(聞き手 喜多由浩)

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