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【お城探偵】千田嘉博 洗練された外枡形・黒井城 信長を超えた光秀

 安土城の山上の大手門であった黒金門は典型的な外枡形で、鍵の手状に張り出した石垣が門を守り、城道は門の前後で屈曲して通るようになっていた。安土城で成立した外枡形は、のちに豊臣秀吉の大坂城や徳川家康の江戸城の本丸門も受け継ぎ、天下人の城の権威を象徴するものになった。

 光秀の黒井城は、本丸と二の丸、三の丸を石垣で固め、出入り口はいずれも外枡形で統一した。さらに現在は石垣の基礎しか残らないので分かりにくいが、復元すると、三の丸の出入り口はもともと連続した2つの外枡形を設置していたとみられる。これは10~20年ほど後の文禄・慶長期に主流になった設計で、光秀の黒井城の先進性を示す。

 信長の安土城も、黒金門から天主台の手前に着くまでに合計で3つの門を建てていて、黒井城と同様の連続外枡形を志向したと見てよい。ただし、外枡形形態の一貫性では安土城よりも黒井城の洗練度が高く、この点において光秀は信長を超えていた。もちろん信長の本拠の城であった安土城と、光秀の支城の一つに過ぎなかった黒井城では役割や位置が大きく異なった。しかし、出入り口の進化を尺度に比較すると、光秀が信長の一歩先を実現したといえそうである。

 光秀は黒井城の改修を進めるなかで、自分なら信長を超えられるのを証明しようとしたのかもしれない。光秀は信長に敬意も抱いていたのだが、同時に競い合い、超えるべき相手としても意識していたように思う。安土城の外枡形を規模や派手さではなく、本質的な守りの機能で超えてみせた黒井城は、光秀の意識そのものだった。(城郭考古学者 千田嘉博)

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【用語解説】黒井城

 赤松氏が1335(建武2)年に築いた簡素な城が起源とされる。その後、荻野氏が支配するも、赤井(荻野)直正が乗っ取りに成功。直正は織田信長に腹命し所領を安堵(あんど)されたが、反織田勢に転じたことで、明智光秀に攻められ落城する。戦後の統治は光秀の重臣、斎藤利三が担い、城下の陣屋(現興禅寺)は娘のお福(春日局=かすがのつぼね)の生誕地という説もある。

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