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【話の肖像画】元日銀副総裁・ジャーナリスト・藤原作弥(82)(6)

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少年期を過ごした満州時代(右)=昭和20年
少年期を過ごした満州時代(右)=昭和20年

 ■「葛根廟事件」生き残った負い目

 《満州の北西部、モンゴル人が多く“満州蒙古”と呼ばれた地域に、藤原一家が住む「興安街(こうあんがい)」(現中国・内モンゴル自治区ウランホト)があった。終戦時の在留邦人は約4000人。昭和20年8月14日、うち約1000人の民間人が南東約40キロのラマ寺院葛根廟(かっこんびょう)近くでソ連軍(当時)の戦車部隊に蹂躙(じゅうりん)されて虐殺。あるいは自決して亡くなった。助かったのはわずか百十数人。親を亡くした多くの子供たちは残留孤児となった。「葛根廟事件」である》

 私たち一家は、父が軍関係の職場(満州国軍軍官学校の教員)にいて情報が早く入り、ソ連軍が来る前に、8月10日夕の列車に乗ることができました。軍関係の家族ら約300人が2台の無蓋貨物車に分乗、夕日が満州の広大な大地に沈む光景を見ながら、これで満州ともお別れだな、と沈んだ気持ちでいると、年かさの少年が「僕たちの歌『わたしたち』(満州唱歌の代表作)を歌おうじゃないか」を声を上げ、列車上で大合唱になったのを覚えています。

 私たちは列車で何とか、日本統治下の朝鮮との国境の街・安東(あんとう)(現中国丹東)までたどり着きましたが、そこで足止めされ、約1年半の難民生活を送ることになる。不覚にも「葛根廟事件」のことは、40代半ばまで知りませんでした。逃げ遅れた国民学校(小学校)の同級生の大半が命を落としたり、残留孤児になった。私がその立場になっていてもまったくおかしくなかったわけです。それからずっと「自分だけが生き残った」「事件のことも知らず、のうのうと生き恥をさらしている」という負い目のような気持ちが消えませんでした。

 《「葛根廟事件」は、ソ連軍による非道極まりない、許し難い残虐な蛮行であった。犠牲になったのは、ほとんどがお年寄りや女性、子供、それも“丸腰”の民間人。逃げまどう日本人をソ連軍戦車は、あざ笑うかのように押しつぶしたり、一列横隊に並ばせて自動小銃で次々と撃ち殺していった。藤原さんの怒りは、民間人だけを残して、さっさと退却していった日本軍(関東軍)にも及ぶ》

 取材で、関東軍の参謀だった人にこの話をぶつけたことがあります。彼自身も戦後、長くシベリアに抑留され、苦労をしたと思いますが、虫けらのように虐殺された人たちのことを思うと、問わずにはいられませんでした。「どうして、民間人には情報を知らせずに、軍だけが逃げたのか」と…。その人はこう言いました。「『軍だけが真っ先に逃げた』という批判があるのは承知している。それは甘んじて受けたい。ただ、われわれ軍人は、命令を下されれば、それに従うほかない。(軍の移動という)機密事項を民間人に漏らすこともできない」。そんなことで多くの命が失われたのです。「あまりにも、ひどいじゃないか!」と、当時、90歳を過ぎていた目の前の老人を怒鳴りつけたい衝動を懸命に抑えました。

 助かった私の役目はせめて、「葛根廟事件」のことをジャーナリストとして書き続け、平和への思いを、次代へと伝えてゆくことだと思っています。(聞き手 喜多由浩)

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