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秀吉が最晩年を過ごした伏見城の石積み階段が出土 有力大名屋敷の裏口階段か

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 豊臣秀吉が築いた木幡伏見城跡(京都市)から出土した石積み階段。当時の石垣は今でもごく一部が残っているとされるが、天皇陵の中にあり、見ることができないのが現状だ。そんな中、住宅建設に伴う工事のなかで偶発的に見つかった良好な遺構。専門家は「詳細に城の構造を知るうえで意義は極めて大きい」と口をそろえる。

震災後すぐに再建

 平成29年に民間調査団体が行った発掘では、徳川期の石垣跡の奥から一部が焼け焦げた豊臣期の石垣が出土。30年2月、南北両隣の開発に伴って調査した結果、巨石を2~3段積んだ石垣が見つかった。

 さらに、その奥に人工的に盛られた土を取り除いてみると、大規模な石の階段が出てきた。

 焼けて赤く変色した石もあり、すぐに初代木幡城のものと確認。京都市はすぐに工事を中断して応援を呼び、記録保存のための調査を始めた。

 石壁の積み方を見た中井均(ひとし)滋賀県立大教授は、石と石の隙間が空いている点に注目。隙間に石が詰められていない点も木幡(こはた)城の前身、指月(しづき)城と同じ特徴であることから、「指月城が慶長地震で倒壊してすぐに秀吉が木幡城の築城にとりかかったのだろう」とみる。

 一方、壁の石の積み方に地震の教訓が生かされていないという。初代木幡城は指月城の倒壊を受け、地震に強い構造で造られたとされる。石壁を築く際、自然石を土壁に深く埋める工法がその一例だ。

 しかし、今回の階段の側壁は、石を土壁に浅く埋めてあり、使用する石の数が節約されている。

 中井教授は「階段の高さがあまりない分、倒壊しにくいと判断したのかも」と分析する。

裏口に通じる石段?

 また、山田邦和同志社女子大教授(考古学)は「城の中心部に近く、丹念に造られているだろうから、今回の発見は、城の構造を詳細に知るうえでも意義は大きい」と評価する。

 豊臣時代の城や大名屋敷の配置が描かれた図面はなく、現在、残っているのは江戸時代中期の天明8(1788)年など後世に描かれた図面ばかり。それらの図をもとに推測すると、階段の行き先は松平下野守あるいは結城秀康の屋敷が想定されるという。

 一方、城の中心部に用いられる桐紋の軒丸(のきまる)瓦や唐草紋の軒平(のきひら)瓦が今回の現場から出土していることから、中井教授は「(そうした瓦を使える)秀吉に近い大名が住んでいたのは間違いない」と断言する。

 また、今回の階段は西向きだが、当時の屋敷の玄関は反対側にあったとみられることから、山田教授は「裏門の階段の可能性が高い」と話している。(園田和洋)

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