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【話の肖像画】元日銀副総裁・ジャーナリスト・藤原作弥(82)(5)「藤原三代」の血が騒ぐ

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昭和18年ごろ、秋田県大館市で家族と。右端が藤原作弥氏。左上は祖父、相之助氏
昭和18年ごろ、秋田県大館市で家族と。右端が藤原作弥氏。左上は祖父、相之助氏

 《祖父・相之助(あいのすけ)は、慶応3(1867)年、現在の秋田県生まれ。仙台の宮城医学校(現東北大医学部)に入学したものの、学費が続かず、新聞記者に。やがて、「河北新報」主筆・編集局長として健筆を奮う。漢籍に造詣が深く、歴史学者としても知られ、『仙台戊辰史』『平泉情史』などの著作を残した》

 祖父は、好奇心旺盛な人で、新しい西洋の学問もやったし、絵も描いた。東北戊辰戦争について、史料と証言を集めて、社会科学的に論考した学術論文的な物語を新聞に連載し、本にもなって高く評価されます。民俗学の柳田国男や、ジャーナリストの徳富蘇峰(とくとみそほう)らと交友があり、新聞界では知られた人物でした。私たち一家が昭和21年に、満州(現中国東北部)から日本へ引き揚げてきたとき、仙台の祖父の家へ落ち着き、小学生だった私が“おじいちゃん担当”になります。食事を運んだり、買い物を頼まれたり。喉頭(こうとう)がんで、のどに穴があいていましたが、書斎で原稿を書き、書庫には本がいっぱい。新聞社に通っていたころは、家に帰ると、まず一斗樽からグイと酒を飲んでから原稿を書いた伝説も聞きました。祖父と接するうちに私も本が好きになり、新聞記者になりたいと強く願うようになったのです。

 祖父は23年に亡くなるのですが、臨終のときの様子をよく覚えています。枕の下に3編の漢詩があり、「私の魂は故郷へ帰る」という意味のことが書いてある。それが遺書になりました。それから、父から順に家族を呼んで、ひとりひとりの手を握って最期の別れをした。私の番が来ると、祖父は笑顔になってうなずきます。悲しいけれど、やさしい目…。荘厳な光景が今でも忘れられません。

 《父・勉(つとむ)は、相之助の薫陶(くんとう)を受けて民俗学(文化人類学)の研究を志す。駒沢大学で言語学を学び、「ウラル・アルタイ語のシャーマニズム」をテーマにして、恐山や出羽三山のイタコやシャーマンを研究。さらに、一家で朝鮮北部(現北朝鮮)の清津(チョンジン)を経て、満州の興安街(現中国・内モンゴル自治区ウランホト)にあった満州国軍軍官学校の国漢教師となった》

 満州の北西部、ソ連(当時)と満州の国境を貫く大興安嶺山脈と広大な草原が広がる、モンゴル(蒙古)人が多い地域でした。父は、食い扶持(ぶち)を稼ぐために、平日は軍官学校の教師を務めて、モンゴル人の士官候補生に日本語や漢文を教え、休日や長い休みになると、フィールドワークに出かけて研究を続けてゆく。記者になったのは祖父の影響ですが、放浪癖は間違いなく、学術的好事家だった父から受け継いでいる。後に満州もののノンフィクションを書くようになったのも、一家の大陸放浪体験に基づいているのです。まさしく、「藤原三代」の血ですね。ちなみに、よく聞かれるのですが、平安時代に東北で栄華を築いた、奥州藤原氏三代とは何の関係もありませんので、悪しからず(苦笑)。

 《昭和20年8月9日、ソ連軍は約150万の大軍で突然満州へなだれ込んで来る。邦人にとてつもない悲劇が待ち受けていた》(聞き手 喜多由浩)

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