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【彰往考来 新時代のヒストリア】幕末維新から平成、そして未来へ-近現代史と皇室を考える 所功・京都産業大名誉教授(4)

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ジャングルで発見された父の遺品である飯ごうのふたを手にする所功さん(左)=昭和47年7月、ソロモン諸島(所さん提供)
ジャングルで発見された父の遺品である飯ごうのふたを手にする所功さん(左)=昭和47年7月、ソロモン諸島(所さん提供)

史上の名君

 〈昭和天皇崩御から12日後にあたる平成元年1月19日付本紙「正論」欄で、作家の阿川弘之さんは次のように述べている。

 「対米開戦の詔書が天皇裕仁の名前で出されているにもかかわらず、陛下は世界に類い稀な、二十世紀の名君だったという私の印象には変わりがない。愚かな臣下どもが、半ば自分をだますようにして、勝てるはずのない無謀のいくさに突入し、あげ句の果て、徹底的敗北を喫して、全国の都市が焼野原になり、国民は餓え、国土は戦勝国の軍隊に占領された。その時、占領軍最高司令官のもとへ自ら出向いて行って、『自分の一身はどうなっても構わない。どうか国民を救ってやってほしい』と懇願した、そんな帝王が、世界の近代史の上にだれかいただろうか」(※1)

 所さんもまた、昭和天皇を「類い稀な二十世紀の名君」と評価する一人である〉

 「大東亜戦争」は開戦も終戦も同じ天皇のもとで行われたわけですから、当然外部からその責任を問われかねません。それをだれよりも自覚しておられたのが昭和天皇ご自身です。また、法的に立憲君主は無答責(法律上の責任を負わなくてもよいこと)となっていても、自分には道義的な責任があることを晩年にいたるまで痛感しておられました。たとえば、昭和61(1986)年の天皇誕生日(4月29日)に在位60年の祝典が開催されたさいの御製(和歌)の草稿が先日、確認されました。

 國民の祝ひをうけてうれしきもふりかへりみればはづかしきかな

 お祝いをしてくれるのは確かにうれしい。しかし、戦争によって多くの命が失われ、国民が塗炭の苦しみを味わったことを思うと、そのようなお祝いを受けることは恥ずかしく、自責の念にたえない。昭和天皇のそんな悔恨・痛悔の念がにじみ出ています。

戦死した父の「導き」

 〈所さんの父、久雄さんは昭和17年7月に「赤紙召集」され、1年後、南太平洋のソロモン諸島で戦死した。30歳だった。昭和47年夏、30歳の所さんが現地に住む日本人の協力を得てジャングルをかきわけて捜索したさい、偶然にも「所」と刻まれた飯ごうのふたを発見した。さらにその翌日の7月27日朝、わずかに残っていた遺骨を拾い上げた。「くしくも足かけ30年目の命日だった」という。「私も人並に教育を受けて、いわゆる合理主義というものを身につけたつもりの人間であるが、(中略)もしも霊の導きというものがあるならば、このことではないかと思わざるをえない」。所さんはそう記している〉

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