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【話の肖像画】元日銀副総裁・ジャーナリスト 藤原作弥(82)(4) 俳人・金子兜太さんの思い出

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 通信社の記者から日銀副総裁になって、「攻守ところを変えて(自著のタイトル)」ではありませんが、日々の生活は、まるで変わりましたね。記者はたいてい「朝遅く、夜遅く」の日々。日銀へ行ってからも、特に朝のスケジュールがなければ、遅く出勤していたのですが、どうも様子がおかしい。他の役員らは、用事がなくても午前9時には来ているのです。考えてみたら当然だった。マーケット(株式市場など)は、その時間に開いているのですから。

 出勤は、運転手付きの車になり、秘書がついて、給料は、時事通信時代が安すぎたせいもあって、まぁ、2倍以上になりました。役員の部屋が並ぶ8階フロアには、赤じゅうたんが敷かれ、副総裁室もそこそこ立派で広い。

 その部屋へ、以前から親交のあった俳人で、日銀マンの金子兜太(とうた)さん(昨年、98歳で死去)を、お招きしたことがあります。部屋を見て、金子さんがひと言、「あんまりたいしたことねぇな」(苦笑)。反骨精神にあふれた金子さんらしいセリフでした。

 《金子さんは、旧制水戸高から東京帝大、日銀とエリートコースを歩みながら、句作と組合運動に打ち込み、出世は望まなかった。藤原さんが日銀記者クラブ詰めだった1970年代に知り合い、よく金子さんの部屋を訪ねては、文学談議に耽(ふけ)っていた》

 初めて会ったのは私が30代、金子さんは50代だったでしょうか。金子さんは同期が局長、理事に上り詰めても、我(われ)関せず。俳人として一家をなし、小林一茶を再発見したり、種田山頭火(さんとうか)に注目したり、情熱的に活動されていた。私が副総裁に就任すると、「びっくり!」と大書した祝電のような、おはがきを頂き、「一杯やろう」となって、先の副総裁室での再会となったのです。紫綬褒章、文化功労者。功成り名を遂げて90歳を過ぎてもエネルギッシュで、元気いっぱいに全国を飛び回っておられた姿が懐かしく思い出されますね。

 《副総裁として、もうひとつうれしい出来事があった。かつて、満州(現中国東北部)興安街の国民学校(小学校)で、同級生だった竹原梓(あずさ)さんに永年勤続の表彰状を渡したことである》

 僕たちは終戦当時、国民学校の3年生、勉強がよくできた竹原君は、級長でした。私が日銀記者クラブ詰めだったときに、日銀仙台支店勤務だった彼から突然、「同級生の藤原君ではありませんか」と連絡をもらい、東京の本店へ戻った彼と再会しました。「梓」という名前が珍しくて覚えていたのです。2人で満州唱歌の『わたしたち』を歌いながら、痛飲しましたが、私は、彼に話を聞くまで、国民学校の同級生の大半が、満州で非業の死を遂げていたことを不覚にも知りませんでした。そのことが、満州もののノンフィクションを書くきっかけになります。

 表彰状を渡すのは本来、総裁の役割なのですが、竹原君のときだけ私に譲ってもらいました。優等生の彼に劣等生の私が表彰状だって? それは2人にしか分からない、おかしな人生の皮肉でした。(聞き手 喜多由浩)

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