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【彰往考来 新時代のヒストリア】幕末維新から平成、そして未来へ-近現代史と皇室を考える 所功・京都産業大名誉教授(3)

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時代の節目に語る所功さん=東京都千代田区の産経新聞東京本社(桐山弘太撮影)
時代の節目に語る所功さん=東京都千代田区の産経新聞東京本社(桐山弘太撮影)

「大正」の光と影

 大正天皇(1879~1926年)とその時代に話を移したいと思います。

 大正天皇は幼少のころからご病弱でした。しかし、東宮(皇太子)輔導となった有栖川宮威仁(ありすがわのみやたけひと)親王(※1)がご健康の回復に尽力されました。そして皇太子時代の大正天皇は、全国各地へ出かけられるようになり、一般国民と直にふれあって一体感を醸成されました。これは父君の明治天皇が地方を巡幸されたよりも自由な形で行われました。今上陛下のお出ましのスタイルの先駆けといえるかもしれません。

 明治後期に起きた日露戦争(1904~05)に勝利した後から大正の終わりごろまで、日本は表向き景気がよく、社会的にも「大正デモクラシー」のムードが広がりました。しかし、即位の大礼を終えられたころから大正天皇の病状が進行し、大正10(1921)年11月に20歳の皇太子、すなわち後の昭和天皇に摂政を委ねられることになります。

 関東大震災をはさんでその5年後に大正天皇が崩御するまで、昭和天皇は摂政として立派な働きをされましたが、非常にお辛かったと思われます。なぜなら、摂政を委ねられた皇太子がその役割を果たすということは、父君の大正天皇がもはや公務を何もおできにならないことを裏付けることになるからです。

 昭和に入りますと、厳しい内外情勢のなか、25歳で即位された昭和天皇は、大日本帝国憲法が規定する元首として、また陸海軍を統帥する大元帥として非常なご苦労をなさいます。もちろん近代的な立憲君主制ですから、政治・軍事の実務は臣下に委ねられ、政府や軍部の決定を承認する無答責(法律上の責任を負わなくてもよいこと)というお立場にありました。とはいえ、昭和4(1929)年、「張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件」の真相究明における首相、田中義一の食言を問責されたことで内閣が総辞職した(※2)結果、国政に混乱を招いてしまったと反省され、ご真意の表明を控えられるようになります。

国民がことほぐ「皇太子さまお生まれなつた」

 こうしたなかで何よりの朗報は、昭和8年12月23日の「皇太子さま(今上陛下)ご生誕」のニュースです。昭和天皇と香淳皇后の間には4人の皇女(内親王)が次々と誕生されました。しかし、皇位を継承できる皇子のご生誕はまだでしたから、この朗報に皇室も国民も大喜びだったようです。

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