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【彰往考来 新時代のヒストリア】幕末維新から平成、そして未来へ-近現代史と皇室を考える 所功・京都産業大名誉教授(2)

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父の久雄さんが出征する直前に撮影された所家の家族写真。乳児の功さんを抱いているのは母のかなをさん(所功さん提供)
父の久雄さんが出征する直前に撮影された所家の家族写真。乳児の功さんを抱いているのは母のかなをさん(所功さん提供)

 明治時代の中ごろまで、天皇に和漢洋書を講義する「侍講(じこう)」という官職がありました。この侍講を長期間にわたって務めた元田永孚(ながざね)(※1)が果たした役割はきわめて大きかったと考えています。

 明治天皇と元田の関係は、まさに「水魚の交わり」でした。元田は「天皇・皇室は別格」という信念のもと、あえて明治天皇に厳しいことも申し上げました。それでいて厚いご信任を受け、「御手許機密の顧問」として活動したのです。伊藤博文が大日本帝国憲法の制定や帝国議会の開設というハード面で明治天皇を支えたのに対して、元田は帝王学というソフト面で支えた忠臣です。

昭和天皇と乃木希典

 同様に明治天皇のご信任を得たのが陸軍大将の乃木希典(のぎ・まれすけ)です。乃木が学習院の院長に就任したのは明治40(1907)年1月。当時5歳で翌年に学習院に入学される皇孫・裕仁親王(後の昭和天皇)の“薫陶役”をも兼ねるという大任でした。そこで乃木は、裕仁親王が心身ともに強健な立憲君主として成長されるよう尽力しました。その証しの一つが先日確認された、昭和天皇晩年の直筆歌稿のなかにもみられます。

 雨(の)時は馬車(うまぐるま)にて學校にかよひたること(りしが)のぎはさとせり

 この御製(歌稿)には「赤坂御殿より通ふ のぎは乃木大将のこと」というご自身の「説明」が添えられています。つまり、当時は東宮御所だった赤坂離宮(現・迎賓館)から四谷の学習院初等(学)科に通学するさい、裕仁親王が晴の日は徒歩で、雨の日は馬車を利用されていたところ、乃木院長から「雨の日も歩いて通われるように」と諭された、という思い出を詠まれたのです。

 昭和天皇は昭和46年のある会見(※2)で、前述の御製に詠まれた出来事について「(乃木から)質実剛健(が大事だということ)を教えられたと思います」と語っておられます。その後、晩年の昭和62年に至ってもこの御製のように詠まれました。小学校時代に乃木から学ばれたことが、いわば一生を貫く精神的な中核をなしていたことがわかります。

 乃木や元田のような側近たちは、あえて苦言・諌言を申し上げたことも少なくありません。それらを天皇は寛大に受け入れられ、道徳的に自らを高めていかれたのです。

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