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【話の肖像画】元日銀副総裁・ジャーナリスト 藤原作弥(82)(1)役目は「クビ斬り朝右衛門」

元日銀副総裁、ジャーナリスト・藤原作弥さん(荻窪佳撮影)
元日銀副総裁、ジャーナリスト・藤原作弥さん(荻窪佳撮影)

 《日本銀行は、そのとき(平成10年3月)、崖っぷちに追い込まれていた。バブル景気崩壊後、金融機関の破綻が相次ぎ、景気は長期低迷。追い打ちをかけるように不祥事(接待汚職事件)が発覚し、正・副総裁は辞任を余儀なくされてしまう…。副総裁の後任人事は、世間をアッと驚かせた。記者として長年「日銀ウオッチャー」の経験はあるものの、金融実務は未知数のジャーナリスト(時事通信解説委員長)だったからである》

 まさに、青天の霹靂(へきれき)でしたね。私なりに(正副総裁の)後任人事を取材していたところへ、官房副長官(事務)から突然、電話があったのです。私は、日銀法改正(10年4月施行)を議論する金融制度調査会の委員を務めていたので、最初はてっきり「後任の候補を推薦してくれないか」という話かと思ったら、どうも様子が違う。私に「副総裁をやってくれ」というのです。

 「え?」「はぁ?」。にわかに信じがたい話に何度も聞き返しました。先方は本気らしい。「総裁は速水さん(優(まさる)・日銀出身で前経済同友会代表幹事)に決まった。副総裁はぜひあなたにお願いしたい」というのです。私は、そんなこと考えられない、いや、あっていいはずがない、と即座に断りました。取材経験は確かに長いが、大学教授のような識見はないし、金融実務の経験もない。「その任にあらず」と分かっていたからです。

 ところが、先方も頑(がん)として引かない。結局、丸3日、72時間考え抜き、猛反対だった家族も説得して、引き受けることにしました。最終的に決断したのには満州(現中国東北部)での悲惨な体験があります。多くの同胞を亡くし、私だけが生き残ったという負い目が消えない。ならば「お国のために少しでも役立たねばならないのではないか」という思いがずっとあったからです。

 この間、橋本龍太郎首相(当時)からも2度電話がありました。妻が取って「橋本さんから電話よ」って。「え? どこの橋本さん、えっ、首相の…」なんて、やりとりがあったのを思い出しますね(苦笑)。

 《だが、課せられた役割は、まさに“火中のくりを拾う”がごとし。有効な景気浮揚策を講じられないのに、幹部は豪勢な接待を受け、高い給与をもらっている…。そんな日銀に世論は沸騰し、日銀法改正の際の、国会の付帯決議で、ヒト、モノ、カネ、カルチャーに関する「日銀のリストラ計画」の策定を突きつけられていた。その担当が新副総裁だったのである》

 つまり“クビ斬り朝(浅)右衛門(あさえもん)(江戸幕府の処刑執行人だった山田朝右衛門のあだ名)”ですな。誰がやってもうらまれる役回り。とりわけ、日銀内部の人にはやりにくい。ならば「外」から来た私の役目ではないかと考えたわけです。(聞き手 喜多由浩)

                  

【プロフィル】藤原作弥

 ふじわら・さくや 昭和12年、仙台市出身。東京外大卒。言語学者の父の赴任・研究に伴い、日本統治下の朝鮮から旧満州へ。21年引き揚げ。37年、時事通信社へ入り、主に財政・金融担当記者として米ワシントン特派員、解説委員長などを歴任。平成10年、民間から日銀副総裁に抜擢(ばってき)された。主な著書に『攻守ところを変えて』『李香蘭 私の半生』(山口=本名・大鷹=淑子氏との共著)などがある。

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