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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第1章 時代を駆け抜けた5年間(6)「対足利」献策拒んだ公家の嫉妬

二条富小路内裏跡」の石碑=京都市中京区(恵守乾撮影)
二条富小路内裏跡」の石碑=京都市中京区(恵守乾撮影)

 ≪京合戦の後≫

 「京合戦」に勝利した後醍醐(ごだいご)天皇は、九州に落ちた足利尊氏の追討を新田義貞に命じる。しかし、義貞は播磨の赤松円心らの策略と抵抗に手を焼き、その間に勢力を盛り返した尊氏が大軍を擁して備後・鞆(とも)の浦まで進出した。義貞が、天皇から拝領した勾当内侍(こうとうのないし)の色香に迷って戦機を逸した、と『太平記』が書くのはこの時のことだ。

 足利軍は海路を尊氏が、陸路を弟の直義(ただよし)が、それぞれ大軍を率いて東上した。尊氏との和睦案を退けられた楠木正成(くすのきまさしげ)は、天皇の比叡山への再臨幸(りんこう)を上奏(じょうそう)するが受け入れられず、兵庫への出陣を命じられる。

                  

 「二条富小路内裏址(にじょうとみのこうじだいりあと)」

 こう刻まれた石碑が、京都御所の南にある京都市立御所南小学校(京都市中京区)の第2グラウンドの一角に立っている。鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が「建武の新政」を始めた二条富小路内裏の跡地を示している。付近一帯は現在、裁判所や老舗商店も並ぶ住宅街となっており、石碑は往時をしのぶ唯一のものだ。

 佛教大の伊東宗裕(むねひろ)非常勤講師によると、石碑が建立されたのは大正5年5月。大正天皇の即位大礼が京都で行われたことを記念し、当時あった京都市教育会が史蹟表彰事業として多数建てた石碑の一つだ。伊東さんは「京都市内の史跡がどんどん忘れ去られていることを防ぐ目的で建てられた」と説明する。

 新政では、家格など旧秩序にとらわれない人材が抜擢(ばってき)され、正成や名和長年(なわながとし)ら倒幕の功労者に破格の官位・官職が与えられた半面、これまで上級官位を世襲していた貴族が低い官職につくケースもあった。

 彼らの不満を示したもの、という新見解があるのが建武元(1334)年8月、二条河原に掲げられた「二条河原落書(にじょうがわららくしょ)」だ。

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