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【話の肖像画】智弁和歌山前監督・高嶋仁(72)(7)初優勝、盟友との出会い

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甲子園で初優勝し、胴上げされる智弁和歌山の高嶋仁氏 =平成6年4月
甲子園で初優勝し、胴上げされる智弁和歌山の高嶋仁氏 =平成6年4月

 〈平成6年春に甲子園で初優勝。常総(じょうそう)学院、PL学園、宇和島東など強豪校を破っての優勝でした〉

 2回戦が横浜、準々決勝が宇和島東、準決勝がPL、決勝が常総。うちは前年度初めて2勝しただけのチーム。でもやっぱり同じ高校生。前年の夏に勝ったことで選手は自信を持っていた。宇和島東戦は八回が終わって4対0で負けていたのですが、九回に5点を取って逆転、一時追いつかれたが、延長で勝った。そうなると高校生は止められない。僕は常々、甲子園で優勝するためには3つの要素が必要と考えている。1つは「実力」、次は「運」、これは組み合わせ抽選の運です。そしてもう1つの要素は「勢い」。宇和島東との負け試合をひっくり返して勝ったことで勢いが出て、そのまま突っ走った。優勝候補ばかりを破り、僕が言うのも変ですが、価値がある優勝です。横浜は当時の選手が4、5人プロに行った。そんなチームに勝った。宇和島東に勝ったことで、上甲(じょうこう)正典監督(後に済美(さいび)監督)との付き合いが始まった。上甲さんには「あんたはあの試合から運が上がりだしたなあ」と言われるくらい、宇和島東戦後、何年も智弁は勝ちだした。

 〈ほかにも名将と呼ばれる監督たちと対戦してきた。大きく影響を受けた監督は〉

 いろいろな人から影響を受けたが、現役の監督でいえば大垣日大の阪口(慶三)監督。ただ、僕が最初に目指した監督は、土佐の籠尾(かごお)良雄監督だった。文武両道の高校です。大学卒業後、すぐに奈良の智弁学園でコーチとして四国に遠征に行ったとき、土佐と試合をした。試合が始まると僕は、ベンチ入りしていないので外野の球拾いをしている選手に声をかけ、なぜ土佐の野球部に入ったのかを聞いた。すると、その選手は「勉強ができるから入りました」と答えた。練習後に勉強の時間があり、野球部OBが寮で勉強を教えているようでした。これはすごい学校だと思ってね。どこの大学を受けたいのか聞くと、最初は言葉を濁していたが、問い詰めると「慶応です」と言った。近隣の国公立より(レベルが)高いじゃないかと。監督も選手に「立って考えておけ」という怒り方をし、選手も言うことを聞く。智弁の選手に同じことを言い、目を離して振り返ると、その場にいない。そのとき思いました。絶対に高校野球はこうあるべきだと。

 そして初めて優勝したときにインタビューで、「誰を目標としたのか」と聞かれ、「籠尾良雄」と言った。その発言が新聞に載り、籠尾先生から電話が来て、招待試合に行くことになった。それを嗅ぎつけた監督がいた。それが明徳義塾の馬淵さん(馬淵史郎監督)。電話がかかってきて「土佐とやるらしいな、うちともやってくれ」と言われ、今に続く付き合いが始まった。その後、甲子園の決勝で明徳と戦い、全日本高校選抜のチームの米国遠征で一緒に戦って、急に親しくなったんですけどね。(聞き手 尾崎豪一)

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