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【元号の風景】(12)元和(1615~1624年) 大阪市中央区 道頓堀

外国からの観光客でにぎわう道頓堀界隈。右岸が宗右衛門町で、かつては花街として栄えた
外国からの観光客でにぎわう道頓堀界隈。右岸が宗右衛門町で、かつては花街として栄えた
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 ■戦乱の果て 集まる「マレビト」

 広場のように拡張された戎(えびす)橋は、すさまじい喧噪(けんそう)につつまれていた。嬌声(きょうせい)や歓声、ときに怒声が響いてくるが、ほとんどが外国語だ。ひときわカン高いのは中国語で、大きなキャリーバッグを置いたまま、道頓堀川などを撮影していた。

 「ミナミ」(大阪市中央区)の中心地・道頓堀界隈(かいわい)は、いまやインバウンド(訪日外国人客)の蝟集(いしゅう)拠点のようになった。ナゼ人気なのか、よくわからない。タコ焼きを頬張っている外国人がめだつが、まさかタコ焼きが目当てではないだろう。

 江戸初期には葦(あし)が群生し、海鳥(うみどり)が羽を休めるために飛んできたりもした広大な湿地帯であった。道頓堀川は大坂・平野郷出身の大庄屋・成安(なりやす)道頓(「安井」姓とも)が私財を投じ、慶長(けいちょう)17(1612)年から開削(かいさく)工事に乗りだし、慶長20(1615)年7月、慶長から「元和(げんな)」に改元された年の11月に完成した。

 改元の理由は慶長20年5月、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼしたのを奇貨(きか)とし、徳川方が朝廷に強く要請したからだ。室町期から1世紀以上も続いた戦乱の世を終わらせた功を訴え、「和」という漢字を入れさせた、とされる。教科書的には「元和偃武(えんぶ)」と呼ばれる。「偃武」とは「戦争がやんで太平になること」(広辞苑)という意味だ。

 道頓は大坂城の濠(ほり)を開削し、その功で「ミナミ」の地を豊臣秀吉から与えられた。秀吉には恩顧があり、夏の陣では豊臣方に参戦し、大坂城で戦死した。「南堀川」と呼ばれた道頓堀川の開削工事も中断した。

 あたらしい大坂城主となった徳川家康の外孫・松平忠明(ただあきら)が工事の続行を認め、敵方だったにもかかわらず、川の名前を「道頓堀川」と命名した。忠明は江戸堀川や京町堀川などの開削のほか、大規模な都市計画にも乗りだし、現在の大阪の町の基礎を築いた。

 「大阪の町は太閤(たいこう)はんがつくりはった」と言われるが、忠明の功のほうが大きかったはずだ。

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