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【話の肖像画】智弁和歌山前監督・高嶋仁(72)(5)「俺が勝たしたる」

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野球部員を指導する高嶋仁氏。転勤当時は練習試合の相手を探すのにも苦労するほどの弱小チームだった =平成23年11月、和歌山市冬野の智弁和歌山高グラウンド
野球部員を指導する高嶋仁氏。転勤当時は練習試合の相手を探すのにも苦労するほどの弱小チームだった =平成23年11月、和歌山市冬野の智弁和歌山高グラウンド

 〈智弁和歌山に転勤当初は“同好会”レベルの弱小チーム。奈良で確立した厳しい練習スタイルも当時は通用しなかった〉

 就任前の昭和54年、最初の夏の県大会を見に行くと、もちろんコールド負け。左翼手がボールを追いかけてフェンスに激突して救急車で運ばれた。今度は三塁打の打者が三塁に滑り込んで骨折、こちらも救急車。そんなレベルですよ。僕が55年に転勤してグラウンドに行くと、迎えた選手は3人だけ。「今度奈良から偉い人が来る。いれば殺されるで」という噂が出たそうです。その日は最終的に15人か16人集まり、それがスタートだった。

 54年は箕島(みのしま)(和歌山)が公立校で初めて甲子園を春夏連覇した年で、箕島はもうはるかかなたですよ。富士山どころじゃなかった。奈良でのやり方は全然通用しませんでした。でも、それが良かった。彼らになじむように、徐々(じょじょ)に練習のレベルを上げていくようにした。練習試合を含めて1勝もしていないが、やりがいはありますよ。「俺が勝たしたる」という思いだった。

 〈智弁和歌山は当初、和歌山で練習試合もしてもらえないチームだった〉

 和歌山の弱いチームに申し込んでもやってくれない。今で言ったら「いじめ」ですね。「智弁は奈良やん。和歌山にもあんのか」と言って。知っているくせに。練習試合は全部県外。試合に行ったらボロボロ。でも、そんなゲームでも悔しくて泣いている選手が何人かいた。それを見て強くなると思いました。下手くそでも悔しさを知れば、人間は絶対強くなる。負けた翌日ミーティングをすると、素直に話を聞くようになっていた。

 僕にとって和歌山で初、彼らにすれば2回目の夏。県大会の初戦で優勝候補に当たった。でも、野球はやってみないとわからない。勝ってしまった。勝ったら校歌を流しますが、当時、智弁和歌山はまだ校歌がなく、智弁学園の校歌を流した。選手は誰も知らずにボケッとしている。それが甲子園へのスタートなんですよ。

 〈その後は甲子園の常連校に。62年には1年生部員を毎年10人だけ選抜する「スポーツコース」を開設した〉

 夏の大会前、6月末とか7月の初めに愛知などの強豪校と練習試合をすると、部員が100人以上いる。試合をするそばで遊んでいる子がいて、それが3年生。ベンチに入れずに遊んでいる。それを見たときに、こういう選手だけは作りたくないと思った。3年生の最後の夏は、全員が必死にやるのが本来の姿ではないかと。その上、新入生が30人くらい入っても、1週間で5、6人しか残らない。入るけれど辞めていく。そこで(智弁学園の)藤田照清(てるきよ)理事長(当時は専務理事、故人)が「部員確保できやんやないか。スポーツコースを作れ」と。最終的に毎年10人でいくことになった。10人しか入れないので、良い選手に来てもらわないと困る。中学校や少年野球チームに頭を下げて回りました。(聞き手 尾崎豪一)

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