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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第1章 時代を駆け抜けた5年間(5)一乗寺下り松 尊氏との和睦 上奏の真意

一乗寺下り松(左)と「大楠公戦陣蹟」石碑=京都市左京区(恵守乾撮影)
一乗寺下り松(左)と「大楠公戦陣蹟」石碑=京都市左京区(恵守乾撮影)
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 北条氏の残党が起こした中先代(なかせんだい)の乱を平定した足利尊氏が将軍として御教書(みぎょうしょ)(命令書)を乱発するなどしたため、後醍醐天皇は新田義貞に尊氏討伐を命じた。義貞は尊氏の弟、直義(ただよし)の軍を破って鎌倉に迫ったが、尊氏が出馬すると寝返る武将が相次いで敗退。後醍醐天皇は比叡山に臨幸(りんこう)し、足利軍は入京した。

 京の奪回をめざす官軍の戦いは建武3(1336)年1月16日に始まった。「京合戦」と呼ばれる戦いで、楠木正成(くすのき・まさしげ)は一乗寺(いちじょうじ)下(さが)り松に陣を張った。この野戦で、籠城戦で名をはせた正成の軍略は一層、冴えわたる。

 後醍醐天皇が臨幸した比叡山と京を結ぶ街道はいくつかある。その一つが雲母(きらら)坂。一乗寺下り松は雲母坂と洛北(京都北部)の主要道だった曼殊院(まんじゅいん)道をつなぐ交通の要衝に位置する。

 この地は史上、節目に度々登場する。地元史をつづる『修学院(しゅうがくいん)風土記(ふどき)』には保元(ほうげん)元(1156)年の保元の乱で敗れた源為義(みなもとの・ためよし)が捕らえられたことや、元亀(げんき)2(1571)年の織田信長の比叡山焼き打ちで重要拠点だったことが記されている。

 〈楠、結城(ゆうき)、伯耆(ほうき)は、三千余騎にて、西坂本を降り下つて下(さがり)松(まつ)に陣を取る〉

 『太平記』は京合戦に臨む正成ら官軍の一部が、この交通の要衝に陣を張ったと記す。現在は「大楠公戦陣蹟」と書かれた石碑が建っている。地元の有志が終戦間近の昭和20年5月に建立し、明治から昭和にかけて活躍した言論人、徳富蘇峰(とくどみ・そほう)が揮毫(きごう)したものだ。

 宮本武蔵の「一乗寺下り松の死闘」で知られる八大(はちだい)神社の飛び地にあり、近くに住む元京都市議の青木善男さんは「軍神・楠公さんがここに陣を張ったことは地元の誇りです」と話す。

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