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【話の肖像画】智弁和歌山前監督・高嶋仁(72)(4)突然の和歌山転勤

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高嶋仁氏が監督として甲子園初出場となった第48回選抜高校野球大会。2回戦ではエース阪本正行の急病により、急遽(きゅうきょ)登板した2年生の山口哲治が好投。岡崎工に競り勝って準々決勝に進んだ=昭和51年春
高嶋仁氏が監督として甲子園初出場となった第48回選抜高校野球大会。2回戦ではエース阪本正行の急病により、急遽(きゅうきょ)登板した2年生の山口哲治が好投。岡崎工に競り勝って準々決勝に進んだ=昭和51年春

 〈昭和45年に智弁学園(奈良)のコーチに就任し、47年には監督に。しかし、甲子園出場は51年春まで足踏みする〉

 僕がコーチとして智弁学園に行った翌年の夏には、県大会の決勝に行った。高校生は練習で絞ったら、それなりの答えを出してくれるんです。ただ、決勝で運がなかった。ピンチでピッチャーの変化球がホームベースの角に当たりキャッチャーの頭の上を越え、失点して負けた。今思えば、「まだまだ努力が足りない」と野球の神様が言ってくれたのだと思います。47年に監督になり、引き受けた以上、勝ちたいからより一層、きつい練習をした。夜中まで続く練習は何回もあった。当時の選手は、練習量も多いし怒られるし、つらかったと思う。そして、練習をボイコットされた。

 僕の記憶に間違いがなければ、練習試合に行って、14、15点入れて勝ったが、1点取られた。その1点が気に入らず、学校に帰ってランニング。それが3時間たっても終わらず、選手たちは「やっていられない」と練習をボイコット。監督を引き受けてから3年間、甲子園に出てなかったので、当時はこれで気持ち的に「(監督を)辞めてもええな」と思っていた。そうしたら当時の野球部長が僕の気持ちを察してくれて、「選手に話をして、自分の思いを伝えてから辞めたらどうや」と選手たちを集めてくれた。

 そこで話をした。「高校時代にめちゃくちゃ感動した甲子園のすばらしさを味わわせてやりたい」「そのために(当時の強豪)天理、郡山(こおりやま)、御所(ごせ)工に勝たないといけない。だから天理の3倍は練習するんや」と話をしたんです。それに対してキャプテンが「監督、分かった。ついて行く」と言ってくれた。

 それまでの練習は選手のことなんて考えてない、気持ちが通じていない練習だった。初めて選手が思いを理解してくれた(50年)秋の大会は天理に次いで準優勝。近畿大会でも上位に入り、翌年春に監督として初めての甲子園に連れて行ってくれた。だから、その時のキャプテンに今も感謝している。それがなければ、たぶん辞めていた。

 〈智弁学園では52年春にベスト4。しかし55年、姉妹校の智弁和歌山に転勤する〉

 52年夏は最後の(和歌山と奈良をあわせた)紀和大会があった。当時は和歌山と奈良で甲子園の1枠を争っていて、智弁学園が優勝した。大会の優勝旗を持って、当時土地の造成をしていた智弁和歌山ができる予定の山に、(智弁学園の)藤田照清(てるきよ)理事長(当時は専務理事、故人)や選手とともにユニホームを着て登った。そこで理事長が「ここで天下をとるんや」と。そのような言い方をしたと覚えている。でもそのときは僕が行くとは思ってはいなかったのです。

 夏の甲子園後、転勤することになった。智弁学園で自分が声をかけた子の面倒は見てから行くことにして、55年に智弁和歌山へ転勤。その間もそっと和歌山の方に見に行っていたが、部員が50人ぐらい。当時は“同好会”で、まあ楽しそうだった。(聞き手 尾崎豪一)

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