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【話の肖像画】智弁和歌山前監督・高嶋仁(72)(3)学生時代はアルバイト漬け

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第84回全国高校野球選手権大会準決勝で帝京に快勝し、笑顔の高嶋仁氏。原点は大学4年のときの智弁学園幹部との面接だった =平成14年8月、甲子園球場
第84回全国高校野球選手権大会準決勝で帝京に快勝し、笑顔の高嶋仁氏。原点は大学4年のときの智弁学園幹部との面接だった =平成14年8月、甲子園球場

 ■学生時代はアルバイト漬け

 〈日本体育大学に進学するも、学生時代はアルバイト漬けの生活を送った〉

 経済的に厳しい状況だったことは、6、7歳年の離れた弟たちは覚えていない。僕が大学卒業後、おやじが(勤務先の会社から)独立。経済成長の波に乗って経済的に余裕もできるようになり、そのあたりから弟の物心がついている。だから、苦しい時を知らないんです。智弁和歌山の場合でもそうです。今の人に対して、みんな聞けば「智弁和歌山。強いチームやなあ」「よう甲子園出とるなあ」とか言っているけど、智弁和歌山も一からのスタートなんです。弱かったわけですよ。ボロボロにやられる時代があったわけです。そういう時代を知らないんです。だから講演会に行くときは、そうした苦しい頃の話から始める。今があるのはこうしたことがあったから、やっと強くなってきたんだと。

 僕は、弟と遊んだ記憶もない。彼らが育ったときには大学を卒業して働いていた。実は今年、おやじが亡くなった年齢に達します。亡くなったのは73歳だった。大学時代、休みといったらバイト。バイトするというのが進学の条件ですから、4年間ずっとバイトで、ほとんど地元には帰っていない。帰ったのは教育実習のために2回。中学校の時の恩師、野球部の監督が五島高校に行って、「教育実習は五島でやれ」と全部世話をしてくれた。

 バイトは、冷蔵庫内の50キロはある肉の塊をクレーン船に運ぶ仕事をしていた。36時間働き、12時間休む、そしてまた36時間…。友達は1日でダウンした。僕はバイトしないと、どうにもこうにもならない。野球道具も買わないといけなかった。今の学生で、こんな経験をする人はいないでしょうが、当たり前だと思っていたから、苦しいと思ったことはなかった。

 〈大学卒業後は、コーチとして智弁学園(奈良)へ。長崎出身で縁もゆかりもない学校のコーチに就任した〉

 術中にはまったんです。大学4年の時、日体大野球部のキャプテンをしていた。ある時、野球部の当時の上平(うえひら)雅史監督に「学ラン(学生服)着てこい」と言われた。体育大学だから学校に行くときはだいたいトレーニングパンツなんですよ。「トレパンの着替えは持っとるけど、『学ラン着てこい』とはおかしいなあ」と思いつつ、言われた通り制服を着ていった。そうしたらお坊さんのような人がいるんですよ。上平監督は「『よろしくお願いします』と言えばええねん」と。「よろしくお願いします」と言ったら、それが面接だった。

 智弁学園の藤田照清(てるきよ)理事長(当時は専務理事、故人)が来ていたわけです。上平監督と智弁学園の赤松健守(けんじ)監督が先輩・後輩関係で、話ができていた。僕は知らずに術中にはまっていた。契約は3年。だから長崎に帰る前に3年間高校野球の勉強をして帰ろうと思えば、ちょうどよかった。で、いつの間にか(指導者として)48年過ぎてしまったんです。(聞き手 尾崎豪一)

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