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【話の肖像画】智弁和歌山前監督・高嶋仁(72)(2)指導者決意した高2の夏

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昭和39年夏の甲子園出場を決めた海星。右端に立っているのが高嶋仁氏
昭和39年夏の甲子園出場を決めた海星。右端に立っているのが高嶋仁氏

 〈48年間にわたる高校野球の指導者人生。甲子園を目指す原点は中学時代の成功体験だった〉

 (長崎県)五島列島の福江島出身で、当時島で遊びといえば野球。キャッチボールをするなどして、友達のほとんどが野球をやっていた。本格的に野球を始めたのは、中学に入っての軟式野球から。クラブチームのようなものはないので、学校に入らないと野球はできない。近所の子も一緒に巻き込んで野球をやっていた。その後、五島列島の大会で優勝して、県大会に行っても優勝。そうなったら次は高校に入って甲子園に出たいじゃないですか。やっぱりだんだんと夢が広がっていくんですよね。どの高校が甲子園に出られるくらい強いかというと、海星しかなかった。

 〈当時の日本では地方の若者の「集団就職」が一般的だった時代。高校や大学への進学は家計的にも厳しかった〉

 おやじは製氷会社の工場長をして、朝早くから夜遅くまで仕事をしていた。中学を卒業したら、だいたい集団就職で東京や大阪へ行くのが普通で、高校進学は多くない。ましてや大学となると、ほとんどいない。よっぽどの「ボンボン」しかいなかった。

 家庭的にしんどいのは分かっていたけど、甲子園に行きたかった。「海星に行かしてくれ」と両親に無理を言って頼み込んだ。そういう経緯もあって、当時100人以上が野球部に入って、卒業するときには11人になった(厳しい)チームに居続けた。暴力は当たり前、そんな時分でした。だいたい手でたたくと痛いからとグラブなどを使った暴力があった。やっていられないですよね。

 〈長崎海星では夏の甲子園に2回出場。初めて踏みしめた甲子園の舞台は、指導者の道を歩むきっかけにもなった〉

 2年生と3年生で計2回、甲子園に出場した。僕はピッチャーだったが、肩を故障し、外野手で出場した。初めての入場行進の時、めちゃくちゃ感動して足が震えたんです。もう最高やったですね。

 ただ、自分がプロで野球するのは無理だとも分かっていた。「今度甲子園に帰ってくるときは、指導者で帰ってこよう」と、そのときに心の中で決めた。3年生でも出場したけど、2年生の時の感動とは違う。2年生の時に味わった思いを、野球をやる後輩たちに味わわせてやりたい、という思いがずっと今まで続いている。

 〈日本体育大学にも進学。「ボンボン」しか進学は難しかった時代に、両親に懇願して実現した〉

 高校進学もしんどい家庭だったのに、大学進学なんて言えない。小さい頃からどのような生活をしていたか分かっていたし、弟も2人いた。でも指導者になりたいという思いが強かったんですね。おふくろに相談し、1浪してお金をためてバイトすると決めた。「おふくろも働くから」と言っておやじからも許可をもらった。(聞き手 尾崎豪一)

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