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【書をほどき知をつむぐ】『方丈記私記』堀田善衛著

『方丈記私記』
『方丈記私記』

 □学習院大教授・赤坂憲雄

 ■無責任さを受け入れて…

 1浪して予備校に通っていたとき、いつでも文庫本の『方丈記』をカバンに忍ばせていた。この本の何に惹(ひ)かれていたのか、よく覚えていない。仏教的な無常観に深い関心を寄せていたかといえば、そんなことはなかった。それでも、ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず…と、冒頭の段落くらいは暗唱することができた。

 この堀田善衛の『方丈記私記』は、東日本大震災のあとに、何か心のよりどころをもとめて読んで、記憶に残った本の一冊なのである。堀田自身が『方丈記』を、東京大空襲のさなかに再発見したということに、そそられるものがあった。ここに語られていたのは、『方丈記』の解釈などからは遠く、ただ「私の、経験」だけだ。はじまりに、東京大空襲の夜のごく限られた「私の、経験」が語られていた。

 堀田はいう、戦争という厖大(ぼうだい)な事件は、「その巨大なまでに空(むな)しい必然性のなかに、無限の偶然性を内包して」いる、と。そうして、その偶然のひとつひとつは、その一人一人の生と死にかかわっている。戦争のさなかに、誰が死んで、誰が生き延びるか、それは残酷なまでにほんの偶然でしかない。

 以下の一節を忘れることはない。

 〈…大火焔(かえん)のなかに女の顔を思い浮べてみて、私は人間存在というものの根源的な無責任さを自分自身に痛切に感じ、それはもう身動きもならぬほどに、人間は他の人間、それが如何(いか)に愛している存在であろうとも、他の人間の不幸についてなんの責任もとれぬ存在物であると痛感したことであった。それが火に焼かれて黒焦げとなり、半ば炭化して死ぬとしても、死ぬのは、その他者であって自分ではないという事実は、如何にしても動かないのである〉

 死ぬのは誰か他者であって、自分ではない、という厳粛なる事実は動かせない、けっして反転させることができない。それが、どれだけ深く愛する女であっても、いとおしい子や孫であっても、どこまでも他人の死であり、他人の不幸でしかありえない。そこに、堀田は「人間存在というものの根源的な無責任さ」を見いだしている。

 戦争とは限(かぎ)らない。東日本大震災のあとに、生き残った人が、なぜ死んだのがあの人で、なぜ生きているのがこのわたしなのか、と茫然(ぼうぜん)自失しながら問いかけるのに出会った。その人は津波に流され、タイヤにしがみ付いて、凍傷にはなったが、生き延びた。暗闇のなか、どこか樹の枝にでも引っ掛かっているのか、若い女の助けを求める声が聴こえていたが、いつしか聴こえなくなった、という。

 そもそも責任とは何か、人はいったい、他者にたいする責任など取ることができるのか。自己責任という嫌いな言葉がある。この世に生まれてくることさえ、責任を取りえないわれわれが、いかなる責任を取るというのか。人間とはあられもなく、根源的に無責任な生きものである。それを、ひとたびは受け入れて、そこから、他者に繋(つな)がってゆく道筋を探すしかないのかもしれない。(ちくま文庫・700円+税)

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