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【元号の風景】(11)天正(1573~1593年)長崎・大村市 遣欧少年使節 汚された純真

 インド洋からアフリカ南端を経て、2年半をかけてヨーロッパに着き、ポルトガルやスペインで大歓迎を受けた。クライマックスは1585年3月、ローマ・ヴァティカン宮殿での教皇グレゴリオ十三世との謁見(えっけん)であった。西洋美術史家・若桑みどりは大著『クアトロ・ラガッツィ』(「4人の少年」の意)で、式典のもようを次のように書いた。

 司会役の神父は「彼らは世界の果てなる日本からはるばる来て、猊下(げいか)のもとにひざまずいたのであります。(略)いまや地球の周りをすべて回らなければ行けないほど遠く離れた国が改宗しました」とたたえた。だが“ハレ”の式典に、名代ではないジュリアンだけは列席できなかった。

 84歳という高齢で、かなり衰弱していたグレゴリオ十三世は心を激しく打たれた。側近はその模様を「(教皇は)滝のように涙を流した。そのときわたしは、おそらくこれが教皇の人生における最後の勝利であり、最後の歓喜ではなかったかと思ったのである」と書いた。グレゴリオ十三世は式典の18日後、死去した。

 4人が帰国したのは8年後の天正18年6月、すでに20歳をすぎた若者になっていた。待っていたのは、過酷な弾圧であった。

 ◆「妻子別れの涙石」

 「キリスト教の関係の方ですか?」。観光パンフにあった「首塚跡」から「胴塚跡」「獄門所跡」と、おどろおどろしい名前の旧跡をタクシーで巡っていると、初老の運転手に唐突に話しかけられた。キリスト教とはおよそ無縁の、傲岸不遜の風体(ふうてい)をしていると“自負”していたので喫驚(びっくり)したが、運転手によると、ときたま旧跡巡りをする「キリスト教関係の方」がいるという。

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