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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第1章 時代を駆け抜けた5年間(4)栄達の道 命惜しむな名こそ惜しめ

 正成の官職の検非違使はすでに有名無実の職で、実際に正成が新政権で務めたのは記録所寄人(よりうど)という職だった。記録所は、朝廷の重要事項を扱う訴訟機関。寄人はそこの役職者である。そのほかにも雑訴(ざっそ)決断所や恩賞方の一員にもなっていて、調整能力のあった正成像が浮かぶ。

 「役職で多忙過ぎて地元に居られなかったことが正成には残念だったことでしょう」と永島長老は話す。その多忙の中で正成は、幕軍(ばくぐん)と激しく戦った千早城の近くに戦死者の供養塔を建てている。「寄手(よせて)塚」(高さ182センチ)「身方(みかた)塚」(同137・3センチ)という2つの塚で、敵兵を弔った寄手塚の方が大きいのが特徴だ。

 「敵兵を供養したのは豊臣秀吉の朝鮮の役で、高野山に朝鮮兵の供養塔を建てた島津家ぐらい。死ねば敵も味方もないという考えを正成は先取りしていたと思います」

 正成の先進性については本郷教授も指摘する。足利尊氏との戦いで劣勢だった後醍醐天皇を見限らず、最後まで味方したことに、である。

 「湊川の戦いでは正成は官軍の最前線にいた。播磨の赤松円心のように、いち早く尊氏につけば大歓迎されただろうに、そうはしなかった。そこに、最初に自分を見いだしてくれた後醍醐天皇への感謝、そして百年後、千年後に自分がどう語り継がれるかという歴史を意識した生き方を感じる。命を惜しむな、名こそ惜しめという美学を実践した武将と言えるでしょうね」=毎週金曜掲載

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