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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第1章 時代を駆け抜けた5年間(4)栄達の道 命惜しむな名こそ惜しめ

 〈楠判官(ほうがん)正成に摂津国、河内国(略)の両国をぞ行はれける〉

 『太平記』は、新政権が正成に与えた恩賞についてそう書く。鎌倉倒幕で功績のあった他の武将は、足利尊氏が武蔵、常陸(ひたち)、下総(しもうさ)の3カ国、新田義貞が上野(こうずけ)、播磨の2カ国、伯耆で後醍醐天皇を守り抜いた名和長年(なわながとし)が因幡(いなば)、伯耆の2カ国である。京の幕府機関である六波羅探題(ろくはらたんだい)を滅ぼした尊氏が、鎌倉を攻め落とした義貞より上位に置かれていることが特徴で、後醍醐天皇が源氏の嫡流(ちゃくりゅう)を足利家と見ていることがわかる。

 「その中で正成への恩賞は手厚かったと思います。地元の河内と隣国の摂津をもらったわけで、いずれも畿内。都の近くで豊かな土地ですから遠国をもらうよりもずっとうまみがあったと思います」

 東京大史料編纂(へんさん)所の本郷和人教授はそう話す。官位の従五位下についても本来は武士嫌いの後醍醐天皇にしては大判振る舞いだと言う。

 「従五位下は普通、上級中級貴族の子弟が貴族社会デビューする際の官位。下級貴族なら六位止まりですから、武士としては決して悪い官位ではない。正成はそれまで無位無官の地方武士ですから」

 正成は翌年には従五位上に、天皇に背いた尊氏を九州に敗走させた建武(途中で延元(えんげん)に改元)3(1336)年には正(しょう)五位下に進んだ。尊氏を追い落とすほどの武功があったにせよ、順調な出世ぶりだと本郷教授は言う。

 「このまま進めば四位まで行ったかもしれない。後醍醐天皇は正成をそれほど信頼し、手厚く遇していたと思います」

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