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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第1章 時代を駆け抜けた5年間(4)栄達の道 命惜しむな名こそ惜しめ

観心寺に残る建掛塔。正成の河内守としての短い月日を今に伝える=大阪府河内長野市(松永渉平撮影)
観心寺に残る建掛塔。正成の河内守としての短い月日を今に伝える=大阪府河内長野市(松永渉平撮影)
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 鎌倉幕府の滅亡を受け、後醍醐(ごだいご)天皇は伯耆国(ほうきのくに)(鳥取県)の船上山(ふねのうえやま)を出て上洛(じょうらく)の途に就いた。楠木正成(くすのき・まさしげ)は兵庫でお迎えし、その後は前陣を命じられた。天皇に従う軍勢は7千騎。天皇は正成の功に厚く報いた。

 天皇親政の建武の新政が始まり、正成は河内守(かわちのかみ)と摂津守(せっつのかみ)に任官した。次いで官位も賜り、従五位下(じゅごいのげ)検非違使(けびいし)になった。現代風に言うなら、首都の治安を預かる警視庁の高級幹部といった役職、待遇である。

 しかし、新政2年余りで足利尊氏が天皇に背き、正成は鎌倉から京に攻め寄せる大軍と戦うことになる。

 大阪府河内長野市の観心寺。正成の騎馬像を左に見ながら山門をくぐると左手に、正成が少年時代に学んだと伝わる中院(ちゅういん)がある。正成の時代の建物ではないが、建物の前には伝承を伝える石碑が立っている。

 〈楠公学問所 中院〉

 「正成は8歳から15歳までここで、僧の龍覚(りゅうかく)から学んだと伝わっています。中院は観心寺の支院の一つで、楠木一族の菩提寺(ぼだいじ)です」

 同寺の永島龍弘(りゅうこう)長老はそう話す。さらに長い石段を登り切ると、国宝の金堂(こんどう)がある。河内守となった正成が後醍醐天皇の命で建立したものだ。いわば天下普請(てんかぶしん)のお堂である。

 金堂から右に進むと、重文・建掛塔(たてかけのとう)がある。塔と名がついているものの、初層しかない低い建物である。計画では三重の塔になるはずだったが、正成が湊川の戦いで敗死したため、造営が途中で終わったままになっているのである。2つの建物は、正成の短い栄華を物語っているようだ。

 「楠木家はもともと、地元の領主ですが、造営ほどの奉納はそれまでなかった。天下普請には正成も名誉を感じていたと思います。しかし、新政権の要人になったので在京することも多く、忙しかっただろうと思います」

 永島長老はそう推測する。

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