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【維新150年】立憲国家めざした「大阪会議」の地

 ところが、この会談で酒乱の黒田清隆が暴言を吐き、木戸が激怒した。初日で決裂したかと思われたが、2人を大阪にとどまらせたのは囲碁だった。大久保は何度も木戸を囲碁に誘い、木戸も囲碁会を主催し、大久保らを呼んだ。

 一方で、伊藤は「木戸の望みは政策のみ」と、木戸の政体構想に理解を示したうえで、大久保に対し、元老院や大審院の設立、地方官会議の開催など、国会の開設と三権分立につながる4カ条の改革案を提案。伊藤の斡旋(あっせん)を軸に会合は1カ月余、加賀伊や三橋楼、伊藤の宿舎「専崎楼」などで断続的に行われた。

 この間、井上の仲介で木戸-板垣会談も実現。大久保は4カ条の改革を約束し、木戸と板垣は政府に戻ることで合意した。2月11日に加賀伊で全員が顔を合わせ、大団円を迎えたが、大阪会議はこうした予備会議、個別会談を含めた総称とするのが正確だろう。

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 落ち着いた雰囲気のビルの1階、料亭「花外楼」の玄関に「大阪会議開催の地」の碑がある。大阪市が歴史的な場所や文化財を顕彰する233カ所の史跡のうち、昭和34年に指定された第1号の石碑である。

 2階に上がる階段の踊り場に「花外楼」の扁額がある。大阪会議の成功に気をよくした木戸が「加賀伊」から改めるよう与えた揮毫(きごう)である。さらに、伊藤が書いた回想録か日記の下書きのような一文が店に残っている。

 その中で伊藤は大久保の「国家ノ大政ニ就テハ木戸君の驥尾(きび)に付従シ」という言葉を引き合いに、大久保の木戸招聘(しょうへい)にかける強い決意を伝えている。

 大久保は政権の強化を図り、木戸は独裁を抑制し、板垣は国会開設を急ぐ-。大阪会議はやはり同床異夢の舞台だったのか、新政権もまもなく瓦解(がかい)する。ただ、大阪で立憲国家への方向性を示し、礎を築いたことはまちがいない。(今村義明)

 明治6年の政変 征韓論をめぐり明治政府内で起きた政変。岩倉使節団の外遊中、武力行使を辞さない征韓派と全権大使の派遣を主張する遣韓派が西郷隆盛の派遣を決定。使節団帰国後、岩倉具視や大久保利通が反対し、派遣は無期限延期となり、西郷や板垣退助らが下野、軍人や官僚約600人が一斉に辞職し、後の佐賀の乱、西南戦争につながっていく。

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