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【維新150年】立憲国家めざした「大阪会議」の地

花外楼の店先。「大阪会議開催の地」の石碑がたつ=26日、大阪市中央区(前川純一郎撮影)
花外楼の店先。「大阪会議開催の地」の石碑がたつ=26日、大阪市中央区(前川純一郎撮影)
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 京阪天満橋駅から大川沿いに岸辺を散策する。「八軒家浜(はちけんやはま)船着場」は水都・大阪の水上ターミナルの一つで、明治初年の頃は駅ビルの反対側、土佐堀通南側の昆布店のあたりにあった。その脇を抜け石段を上っていくと、高台の一角に「三橋楼(さんきょうろう)跡」の顕彰碑(大阪市中央区石町)。天満橋、天神橋、難波橋を眺望できる人気料亭だったという。

 東横堀川の葭屋(よしや)橋を渡って北浜へ。今は証券の街というイメージだが、古くは「蟹島新地」「今橋築地」と呼ばれた歓楽街だった。「専崎楼」や「竹式楼」など、中之島を望む高楼が軒を連ね、今橋、高麗橋の旦那衆が贔屓(ひいき)にしたが、市電開通や証券取引所の拡大でやがて姿を消した。唯一残るのが料亭「加賀伊」=「花外楼(かがいろう)」(中央区北浜)で、世に言う「大阪会議」の歴史を伝えている。

   × × ×

 明治7(1874)年、新政府は維新の大業なかばで崩壊という最大の危機にあった。

 直接の火種は、征韓論(武力で朝鮮を開国させるという主張)をめぐり、西郷隆盛や板垣退助ら征韓派が、内政改革、国力増強を優先する大久保利通や岩倉具視らに敗れ、下野した「明治6年の政変」だ。翌年には台湾征討に失望した木戸孝允が参議を辞職、維新三傑の2人が中央政府を去った。

 当時、国内には徴兵制や急激な西洋化に反発する士族・守旧派の不満がくすぶっていた。国会の開設をめぐる急進派と漸進派の対立や、大久保の専制政治への反感もあり、日本は「反政府」で爆発する寸前だったのである。

 大久保は木戸を政府に復帰させるため伊藤博文に協力を要請。すでに下野して大阪で実業家として活躍していた井上馨と五代友厚も水面下で動いた結果、木戸と大久保が大阪で会談することが決まった。さらに井上の画策で板垣も加わることになり、明治8年1月、三者三様の思惑をのせた大阪会議が始まった。

 最高実力者の大久保は丁重に木戸をもてなした。2週間前には大阪入りし、靱(うつぼ)の五代邸(西区靱本町)に逗留(とうりゅう)を重ねながら、1月5日、神戸に木戸を出迎えた。3日後には木戸の宿泊先「加賀伊」を訪ね、天満橋の「三橋楼」に案内し、酒席を伴う最初の会談は10時間に及んだという。

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