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【お城探偵】千田嘉博 “最強”の山城・岩櫃城 真田昌幸の粘りと誠実さ

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本丸直下にある堀。左手前の土手から堀を挟んだ対岸に木橋を架けていた
本丸直下にある堀。左手前の土手から堀を挟んだ対岸に木橋を架けていた

 群馬県東吾妻(あがつま)町にある岩櫃(いわびつ)城は、戦国末期から近世初頭の山城。全国に星の数ほど山城はあったが、もし「強そうに見える城選手権」があったら、岩櫃城は優勝候補だろう。吾妻川の対岸から城を遠望してみてほしい。標高802メートルの岩櫃山は峨々(がが)たる岩の峰。この垂直の岩壁を登って城を攻めるのは、どう考えても無理だと思うに違いない。

 ひと目見ただけで敵の心を砕く岩櫃城だったが、実は岩櫃山の上に城があったのではなく、岩が途切れた北側の尾根上にあった。岩櫃山方面から大軍が近づけないのを利用して、岩山に接して城の本丸を築き、残りの3方向に守りを集中した。本丸の背後に敵に進撃をくい止めた堀切りがないのは、その必要がなかったからである。

 1564(永禄7)年に上杉謙信が関東に遠征すると、武田信玄は北条氏康と連携して謙信を牽制(けんせい)するため武田勝頼たちを岩櫃城に入れた。岩櫃城は武田軍が駐屯できる国境の軍事拠点としてこの頃にできた。その後、岩櫃城の城将になった真田氏は、地域の武士「国衆」を率いる軍事指揮権をもった。

 1575(天正3)年に真田昌幸が城将になると、昌幸は勝頼の信頼を得て上野(こうずけ)国の攻略を進め、岩櫃城は政治拠点としても機能した。1581(天正9)年には昌幸が岩櫃城に常駐して政務にあたり、城を改修するよう勝頼が指示した。現在見る岩櫃城は、この頃に完成したと考えられる。

 ところが翌年、武田家の運命は暗転した。木曽氏の離反を契機に織田信長・徳川家康の軍勢が武田領に攻め込み、武田氏の防衛網はつぎつぎと自壊した。「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」によれば、追い詰められた勝頼は対策会議を開き、居城の新府城(山梨県韮崎(にらさき)市)で敵を迎え撃つ▽小山田(おやまだ)氏の岩殿城(同県大月市)に籠城する▽真田昌幸の岩櫃城に籠城する-の3案を検討したという。勝頼は小山田氏の岩殿城を選んだが、小山田氏の裏切りにあって、甲州市の田野で自害。武田家は滅んだ。

 このとき勝頼が昌幸の岩櫃城を選んでいたらと思わずにはいられない。周囲は大軍の展開が難しく、吾妻川の河岸段丘(かがんだんきゅう)を生かして守れば長期の籠城が可能だった。さらに岩櫃城は城内をいくつもの竪堀(たてぼり)(山の斜面に掘った堀)で仕切っていて、どこか城の一角が落ちても、被害を最小限にする仕組みを整えていた。

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