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【元号の風景】(10)応仁(1467~1469年)京都・西陣

 ■乱の現場 熱の乱舞

 千本通りから「おもちゃ」という古ぼけた看板をかかげた店のカドを、クルマ1台が通るのがやっと、という感じの五辻通りに折れた。京町家ふうの民家がならんでいた。レンタサイクルに乗った2人連れのオンナの子が「キャッ、ハッ!」と笑いながら、いきおいよく通りすぎていった。

 「ここだワッ」と言いながら、オンナの子が自転車をとめた右手に、千本釈迦堂(しゃかどう)(大報恩寺(だいほうおんじ)=京都市上京区)の門前にいたる細い石畳がのびていた。木々にかこまれた正面の奥に、檜皮葺(ひわだぶき)の本堂の屋根がのぞめた。木造建造物としては、京都市内最古の国宝とあった。

 応仁の乱(1467~77年)のさい、京の歴史的建造物のおおくは焼失した。西軍の陣地になったのにもかかわらず、千本釈迦堂は奇跡的に焼失をまぬがれた。「西軍の陣地」があったから「西陣」という地名がうまれ、その後、「西陣織」で知られる小規模な織物工場などが建ちならぶようになった。

 「歴女(れきじょ)」らしいオンナの子のあとを追うように、本堂に入った。薄暗い外陣(げじん)の、茶色い光沢をはなつ何本かの太い柱をジッと見入った。あちこちに穴があき、斜めにえぐられたキズが走っていた。「刀槍(とうそう)のきずあと」という説明板があった。応仁の乱の、現存する数すくない痕跡だとされる。オンナの子が「オーニンの乱って、なに?」と聞き返していたから、たいした「歴女」ではない。

 この寺が西軍の陣地になったのは、ちかくに西軍の大名・山名宗全(やまな・そうぜん)の屋敷があったからだ。洛中をはじめ、各地で11年間も戦(いくさ)をつづけることになった乱の張本人が、この宗全であった。

 もとは守護大名・畠山義就(よしひろ)と従兄弟(いとこ)の政長(まさなが)の家督をめぐる争いだった。文正(ぶんしょう)2(1467)年1月、現在の同志社大周辺で双方が衝突しそうになったさい、第8代将軍・足利義政は義就側の宗全と、政長側の有力大名・細川勝元に「内輪モメだから、加勢をしたりしたら、あきまへんで」とクギをさした。

 宗全はこれを無視して義就に加勢し、政長を追い落とした。ひさびさの戦乱だったため、「文正」では縁起が悪いと、同3月には「応仁」と改元された。だがメンツをつぶされた勝元側が巻き返しをはかり、山名側と全面衝突した。改元は裏目と出たのである。

 単純な家督争いにもかかわらず、将軍家や諸大名たちの跡目争いや領地紛争もからみ、ズルズルと戦線が拡大した。「ズルズル」に縺(もつ)れた糸を解(ほど)くようにガイドしたのが、歴史書としては異例のベストセラーとなった呉座(ござ)勇一氏の『応仁の乱』であった。

 ◆五番町の思い出

 千本釈迦堂から歩いて15分ほどの千本中立売(なかだちうり)にある成人映画専門館「千本日活」のまえまで来たら、建物全体に工事用の白いビニールシートがかぶせられていた。とうとう閉館になったのかと思ったら、入り口には「館内修復工事のため、3月末まで休館予定です」とあった。昨年の台風で館内が水浸しになったという。

 あたりの地名は「五番町」。応仁の乱の舞台にもなったが、往時をしのばせるものはなにもない。昭和期には、西陣の職工や学生たちの遊び場となり、遊郭のほか、飲食店や映画館、ストリップ劇場がならんでいた。西陣のダンナ衆は、もっぱら北野天満宮近くの花街(かがい)「上七軒(かみひちけん)」で遊んだ。

 ストリップ劇場は「千中(せんなか)ミュージック」と呼ばれ、「伏見ミュージック」(伏見区)や「DX東寺」(南区)とならぶ京の3大劇場として知られた。京都大学出身の哲学者・鷲田清一(わしだ・きよかず)氏のエッセー『京都の平熱』には「『せんなか』と聞くと、その音だけで、なにかいけない所と、こころがびくつくのであった」とある。そのころのおもかげが、かろうじて残っていたのが「千本日活」であった。

 五番町は水上勉の名作『五番町夕霧楼』の舞台でもあった。主人公の娼妓(しょうぎ)に会うために、たびたび登楼する若者にはモデルがいた。金閣寺に奉公していた吃音(きつおん)気味の見習い僧で、このとき21歳だった。

 三島由紀夫の『金閣寺』も、この見習い僧がモデルである。界隈(かいわい)を取材した三島は「どの家も入口の横に暗い櫺子(れんじ)窓を持ち、どの家も二階建てであった。重い古い瓦屋根が、同じ高さで、湿つた月の下に押し並んでゐた」と書いた。

 見習い僧が女性と肉体関係を結ぼうとすると、その瞬間、「金閣」が出現し、性行為に失敗するという場面が2回出てくる。「美は……美的なものはもう僕にとって怨敵(おんてき)なんだ」と言わせている。

 応仁の乱でも焼けなかった金閣寺は昭和25年7月、この見習い僧によって放火され、全焼した。紅蓮(ぐれん)の炎に包まれた“怨敵”はそのとき、「美的なもの」などではなかったはずである。三島は、金閣とともに死のうと思っていた見習い僧に放火後、タバコを一服喫(の)まさせ、「生きよう」と言わせた。(客員論説委員 福嶋敏雄)

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【用語解説】水上勉と五番町

 福井県の貧しい家に生まれた水上は9歳のとき、応仁の乱の舞台にもなった京都・相国寺の塔頭(たっちゅう)に小僧として出された。立命館大に進んだが、すぐに酒を覚え、五番町の遊郭通いがはじまった。「私の履歴書」(日本経済新聞に連載)には、「ぼくの十九、二十歳は(略)旺盛な性欲の始末で困った。五番町遊郭はそのはけ口」だった。さまざまな女性とめぐりあい、五番町は「人間大学だった」とも書いた。いまも、この町に「人間大学」はのこっているのだろうか。

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 ■室町時代

 室町時代は足利尊氏(たかうじ)が幕府を開いた延元(えんげん)元(1336)年から、第15代将軍の義昭(よしあき)が元亀(げんき)4(1573)年、織田信長に追放されるまでを指すが、異説もある。応仁の乱以降は、幕府の力が弱体化し、戦国大名が台頭して戦乱が各地で相次いだ。

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