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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第1章 時代を駆け抜けた5年間(3)楠木七城 城跡に薫る「楠公さん」への敬慕

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千早城跡に建つ千早神社。正成、正行らを祭る=大阪府千早赤阪村(恵守乾撮影)
千早城跡に建つ千早神社。正成、正行らを祭る=大阪府千早赤阪村(恵守乾撮影)

 下赤坂(しもあかさか)城から姿を消した楠木正成(くすのき・まさしげ)は元弘(げんこう)3(1333)年2月、千早(ちはや)城(現大阪府千早赤阪村)に再び、鎌倉倒幕のための兵を挙げ、幕府の大軍を迎え撃った。正成はわら人形を作って、だまされて攻め込んだ相手に大石や大木を落とし、あるいは急造の梯子(はしご)で攻めよせる幕軍に油を流して火をかけるなどの奇策を展開し、約100日間に及ぶ籠城に成功した。その間に幕府御家人の足利尊氏、新田義貞らが倒幕に転じ、鎌倉幕府は滅亡した。

 正成は、金剛山中腹を中心に「楠木七城」と呼ばれる多くの山城を築造。北から下赤坂城、上(かみ)赤坂城(楠木城)、千早城が並んでいた。

 <寄手(よせて)は(中略)二百万騎に余りければ、城の四方二、三里が間は、見物相撲(けんぶつすもう)の場の如く打ち囲(こ)みて、尺地(せきち)(わずかな土地)をも余さず充満したり>

 『太平記』は、楠木正成らが籠もった千早城を囲んだ鎌倉幕府軍の様子をそう書く。一方の楠木勢は千人にも満たないが、城は東西が谷が深く、人が登ることは至難で、南北は金剛山に続いて独立峰のような山城だった。そこに攻め寄せる幕軍に対して楠木勢は、大石を落として盾を砕き、散々に矢を浴びせた。

 〈上が上に重なつて、手負ひ、死を致す者、一日が中(うち)に五、六千人に及べり〉

 幕軍の損害を『太平記』はそう記す。

 城跡には今、正成、嫡子(ちゃくし)の正行(まさつら)らを祭る千早神社が鎮座する。神社へは膝(ひざ)を高めに上げなければスムーズに上れない急な階段が約560段。30分近く上り続けてようやく、目の前に広場と呼んでいい場所が開ける。

 「ここに武士たちが集まっていたようです」と、同村の文化財担当職員の吉光貴裕さんは話す。正式な名は「第四郭(くるわ)」。「四の丸」とも呼ばれるここを通り抜け、さらに階段を上がると山頂のやや下に拝殿が見えた。近くには「標高634米」と記された案内板がある。

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