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【元号の風景】(9)建武(南朝1334~1336年 北朝1334~1338年) 大阪・千早赤阪村 楠公さんと新政の異形ぶり

千早赤阪村の丘陵地にある楠木正成の誕生地。かなたには葛城山系の山並みがつらなる
千早赤阪村の丘陵地にある楠木正成の誕生地。かなたには葛城山系の山並みがつらなる

 大きくひろがった青い空のしたで、山々の稜線(りょうせん)が白く輝いていた。河内平野を衝立(ついたて)のように囲繞(いにょう)する葛城山系のなかで、ひときわ高いのが金剛山である。その麓にひろがる田んぼの畦(あぜ)の突きあたりに、鎧兜(よろいかぶと)の武者人形がたっていた。案山子(かかし)かと思ったが、楠木正成がモデルらしい。

 大阪府千早赤阪村の、見晴らしのいい丘陵地は「楠公(なんこう)誕生地」とされる。資料館や道の駅などが整備されていた。正成の「産湯の井戸」まであったが、この地で正成が誕生したとする一級史料はどこにもない。「楠公さん」には厚化粧したオンナのように、コテコテした物語=モノ騙(カタ)リ=が貼りつけられすぎている。

 後醍醐天皇がはじめた専制的な政権は「建武の新政」と呼ばれる。歴史家・網野善彦によって「異形の王権」と喝破(かっぱ)されたが、その“異形”ぶりは史上はじめて、元号に「武」という漢字が使われたことでもわかる。「武」は「戈(ほこ)を持って進むさま」という意味とされる。天皇が「戈」を握ったのである。

 新政を実現させた「殊勲甲」は、後醍醐の皇子・大塔宮護良(おおとうのみやもりよし)親王(「護良」は「もりなが」とも)と、正成であった。共通しているのは、「異形の王権」によって、いともたやすく“使い捨て”にされたことである。

 血統がただしい護良はともかく、正成については、歴史家・佐藤進一が名著とされる『南北朝の動乱』(昭和40年刊)で、サジを投げたように「楠木正成はさっぱり正体のわからない人物である」と書いたほどだ。金剛山から流れてくる辰砂(しんしゃ)(水銀を含む鉱物)を採掘する鉱山経営や、交通運輸にたずさわる「独立武士団」(「悪党」と呼ばれた)の頭領という説が有力とされた。

 もとは幕府方の武士だったという見方もある。幕府軍による正成攻めが行われていたころ、京の橋のたもとに、「くすの木の ねハかまくらに成るものを 枝をきりにと 何の出るらん」という落首(らくしゅ)が掲げられたからだ。

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