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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第1章 時代を駆け抜けた5年間(2)下赤坂城 奇略を支えた領民との絆

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下赤坂城の跡地に立つ「赤坂城阯」の石碑=大阪府千早赤阪村(恵守乾撮影)
下赤坂城の跡地に立つ「赤坂城阯」の石碑=大阪府千早赤阪村(恵守乾撮影)

 鎌倉倒幕を目指す後醍醐天皇が笠置山(かさぎやま)(京都府笠置町)で戦ったのに呼応して楠木正成(くすのき・まさしげ)は、拠点の河内(かわち)に下赤坂(しもあかさか)城(現大阪府千早赤阪村(ちはやあかさかむら))を築いて挙兵した。城は三方が平地に続き、一重の堀と一重の塀しか備えていなかったため、30万と呼号する幕軍(ばくぐん)は一気に攻めかかったが、偽りの塀を切って落としたり、大木、巨石を投げ落としたりする正成の奇策に大苦戦した。

 しかし、急な挙兵だったために城は兵糧が十分ではなく、正成は20日余りの籠城の末に逃亡を決意。手勢の物具(もののぐ)を脱がせて寄せ手に紛れて落ちさせ、自らは替え玉の焼死体を用意して城から逃れた。

                   

 〈史蹟 赤坂城阯(あかさかじょうし)〉

 そう刻まれた石碑が、澄んだ青空に向かって、誇らしげに立っている。金剛山地から延びる大阪府千早赤阪村の丘陵地。後醍醐天皇に味方して、倒幕に挙兵した楠木正成が築いた河内・下赤坂城があったとされる場所だ。

 城跡からは北に大阪平野が見渡せる。幕府の六波羅探題(ろくはらたんだい)が集めた兵なら京からやって来る。鎌倉勢にしても河内に入るにはまず、北からやって来る。この場所は、正成が挙兵するにはうってつけの地理と地形だっただろう。

 「ここは北から攻めてくる敵を最初に防げる地。一帯をフィールドにして戦いを繰り広げる上で、出城だったのでしょう」

 同村の文化財担当職員、吉光貴裕さんはそう話す。実際、正成は2度目の挙兵の際には奪還した下赤坂城を前衛の城、さらに南の上赤坂城を本城、最も山深い千早城を詰め城として金剛山一帯で戦いを繰り広げる。下赤坂城跡の周辺では「矢場武(やばたけ)」「甲取(かぶとり)」といった城に関連する小字名も残っていて歴史を伝えている。

 諸説あるが、正成を祭る湊川神社(神戸市中央区)がまとめた『大楠公』によると、後醍醐天皇が正成を笠置山に召し出したのは元弘(げんこう)元(1331)年の9月3日。正成が下赤坂城で挙兵したのは同月11日である。わずか8日しか準備期間はなかった。すでに幕軍は笠置山に迫っており、事態はそれほど切迫していた。

 〈はかばかしく堀なんども掘らず、ただ塀一重塗りて、方(ほう)一、二町には過ぎじと覚えたるその中に、櫓(やぐら)二、三十掻(か)き並べたり〉

 幕軍の目に入った下赤坂城の様子を『太平記』はそう書く。堀や塀も十分になく、城の一辺は109~218メートルほどしかなく、急造の櫓が20~30あるばかりの粗末な城だというのである。

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