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【門井慶喜の史々周国】≪国立歴史民俗博物館≫千葉県佐倉市

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 ■「ほんもの」では得られぬ旅

 人はよく、

 --見るならやっぱり、ほんものじゃなきゃ。

 と言う。

 フェルメールなら絵はがきはだめ、画集はだめ、複製はだめ、所蔵先であるオランダのマウリッツハイス美術館まで行ってオリジナルを見なければ「真珠の耳飾りの少女」の魅力はわからない。ほんもののみが持つオーラをするどく感じ取る者だけが真の鑑賞者なのである。

 日本の仏像、絵巻物、古文書等(など)もおなじである。…こういうオリジナル至上主義からすると、この博物館は「だめ」の最たるものだろう。国立歴史民俗博物館、通称「歴博(れきはく)」。ここにある展示物のほとんどは現代において制作された複製であり、模型であり、ジオラマであり、要するにオリジナルではないのだから。

 私はいま、足利義政についての小説を書いている。

 室町幕府第八代将軍。困難な政治に背を向けて銀閣寺にこもり、茶の湯三昧(ざんまい)、芸術三昧の生活にふけったというような従来の悪いイメージを払拭し、むしろその芸術三昧こそが二十一世紀のわれわれをも支配する、いわゆる「和風」の原点であることを明らかにしたいと思っているが、そのためには、当然ながら義政以前の「和風」の権威との比較をおこなわなければならない。

 建物の面では、王朝貴族ふうの寝殿造との比較ということになる。これが存外むつかしいのだ。何しろ私は、光源氏ではない。これまで寝殿造の建物になんか住んだことがないし、現存する遺構もないにひとしい。いろいろ史料をひっくり返してもピンと来るものはなく、これじゃあ実感ある文章が書きにくい…と途方に暮れたとき、ふと、

 --歴博がある。

 思い出したのだ。

 で、行ってみた。何しろここは規模が大きい。常設展示(総合展示と称する)は展示室が六つあり、それぞれ「先史・古代」(3月19日リニューアル予定)「中世」「近世」「民俗」「近代」「現代」とテーマがわりあてられているが、その展示室ひとつひとつが、よそなら博物館ひとつに相当する。

 ぜんぶをじっくり見ようとしたら、一日では足りない。私は目的を「中世」にしぼり、寝殿造の展示を見おろした。縮小再現されたジオラマだった。

 縮小といっても、卓球台よりも広いのではないか。私はここではじめて、

 --疎密(そみつ)の差、ありすぎ。

 このことが身にしみた。何しろ広大な地面の南半分、いや四分の三くらいは庭ないし池であり、建物はほとんどないのに対して、北側の、のこり四分の一のところには屋根という屋根がひしめいている。

 バランス感覚の圧倒的な欠如。どうして当時の人々はわざわざ自分の住環境をこんなに窮屈にしたのだろうか…私は、体を縮小することにした。

 豆粒ほどの体になり、ジオラマのなかに降(お)り立(た)った。

 ぶらぶらと池のまわりを歩いてみると、

 --この庭は、つまり応接間なんだな。

 ということがよくわかる。お客をまねく大ホール。そこでは雨さえふらなければ鳥合(とりあわせ)(いわゆる闘鶏)ができる、曲水の宴のような詩歌の会ができる。もちろん宴会も。四季おりおりの花を愛(め)でつつ、池の水で盃(はい)を洗い、ときには舟も浮かべるだろう。

 応接間であるからには、当然、何も建てられない。からっぽの空間にしておくよりない。建てるならお客の目にふれにくいところ、寝殿(母屋)の向こう側すなわち北側しかないわけで、その結果があの密の密なる屋根のひしめき、窮屈すぎる住環境にほかならなかった。おそらくそこは日常の場、実用的な空間なのだろう。寝たり、起きたり、トイレに行ったり…とひとまず合点したところで、私は上を向き、ふたたび体を大きくした。

 ジオラマから出て、横に立った。こういう体験もおもしろいものだ。必要なのは入館料と想像力。あの「ほんものじゃなきゃ」の至上主義にこだわるかぎり永遠に得られぬ旅でもある。

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