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【元号の風景】(8)元暦(1184~1185年) 山口・下関市 壇ノ浦

安徳天皇をまつった赤間神宮。「竜宮城」のような外観で、かつては「阿弥陀寺」という寺だった
安徳天皇をまつった赤間神宮。「竜宮城」のような外観で、かつては「阿弥陀寺」という寺だった
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 ■盛者が沈んだ歴史の潮目

 うねる大河のような関門海峡から「ブオ~~ッ」という、間がぬけたような汽笛が低く重く響き、見ると、積み木箱を載せたような巨大なコンテナ船が、這(は)うように抜けていった。制服姿の高校生たちがしきりにスマホを向けていたが、その手前にある、大きなイカリをかつぎ、ねじれた綱を幾重にも腹に巻き、眼をカッと剥(む)きだした武者の像には見向きもしなかった。

 平清盛(たいらのきよもり)の四男・知盛(とももり)の像である。海峡の下関側にある「みもすそ川公園」で、さっそうと八艘(はっそう)飛びをする源義経(みなもとの・よしつね)の像に対峙(たいじ)するように建っていた。元暦(げんりゃく)2(1185)年3月24日、数えで8歳の安徳(あんとく)天皇を擁する平氏側の武者や女官の多くは、いま、コンテナ船が通っている「壇ノ浦」のあたりで入水(じゅすい)した。知盛はそのとき、平氏側をひきいるリーダーであった。

 この前年、安徳のあとを継いだ後鳥羽(ごとば)天皇が即位し、「元暦」と改元された。平氏の側は改元を認めず、それまでの「寿永(じゅえい)」の元号を使いつづけた。6年間におよぶ源平の争乱が、教科書的には「治承(じしょう)・寿永の乱」と呼ばれるユエンである。

 戦いのもようは、「物語」である『平家物語』や『源平盛衰記』をのぞくと、鎌倉幕府の史書『吾妻鏡(あづまかがみ)』や、公卿(くぎょう)の九条兼実(かねざね)の日記『玉葉(ぎょくよう)』などに記されているが、どれも又聞きであり、不明の部分がおおい。義経がひきいる源氏が、もともと海戦には強いはずの平氏を破った理由も、いまひとつハッキリしない。

 「定説」のようになっているのが、日本史学の泰斗・黒板勝美が『義経伝』(大正3年刊)で唱えた潮流説だ。「元来潮流の変化するのは、月がその地の真南に来る時刻、言い換うれば、月がその地の子午線を経過する時刻によって左右せらるる」とあり、義経はこの潮流の複雑な変化を地元の漁師から聞き知り、それをたくみに利用した、というものだ。

 関門海峡は日に4回、西と東へと潮流が変わる。源氏の西側に陣取っていた平氏側に対し、当初は東流がきつかったため、「たぎりて落つる塩(潮)なれば、源氏の舟は塩にむかうて、心ならずもおし落とされる」(『平家物語』)という状態がつづいた。

 やがて潮目は西に変わり、源氏側の反転攻勢がはじまった。義経は「水手(すいしゅ)・舵取(かじどり)」への射殺などを命じたため、平氏側は舟をあやつることができなくなり、大混乱におちいった。「水手・舵取」は非戦闘員で、当時の戦(いくさ)でも殺傷したりするのは“禁じ手”だった。

 「色白うせい小(ちいさ)きが、向歯(むかは)の殊に差出(さしで)」た、つまり「反(そ)っ歯(ぱ)で青白い小男」の義経は周囲の反対を押しきり、いまふうに言えば、戦時国際法違反の戦術に出たのである。戦いのまえ、義経はつまらぬ先陣争いまでしており、将としての“器”も小さかった。重い鎧甲(よろいかぶと)をまとっていたのだから「八艘飛び」など、できるわけがない。

 ◆見るべき程の事は見つ

 クルマがはげしく行きかう海峡沿いの国道を1キロほど行くと、右手に赤間(あかま)神宮があった。見あげると、竜宮城のような朱色の外観があざやかで、「水天門」とあった。幼い安徳を抱きかかえた二位尼(にいのあま)(清盛の妻・時子)が「浪(なみ)のしたにも都のさぶらふぞ」と天皇をなぐさめ、入水した、という故事にちなんでいるのであろう。横手にまわると、宮内庁名の「安徳天皇 阿彌陀寺陵(あみだじりょう)」と記された陵(みささぎ)もあった。

 地名は「壇之浦町」から「阿弥陀寺町」に変わっていた。かつては遊郭や料理屋がならぶ繁華な町だった。幕末には、神宮に隣接するように、豪商・伊藤九三(きゅうぞう)の大邸宅があり、その離れに寄寓していたのが、坂本龍馬と妻のお龍だった。ここで龍馬暗殺の報を聞かされると、お龍は「鋏(はさみ)で以て頭の髪をふッつり切り取って龍馬の霊前へ供へるが否や、覚えずワッと泣き伏せました」と後年、語った。二位尼のように嘆き悲しんだのである。

 龍馬の時代にはあった阿弥陀寺は、いまはない。明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)でつぶされたからである。司馬遼太郎の『街道をゆく』の「長州路」シリーズには「阿弥陀寺のばあい、天皇を仏式でまつるとはけしからぬということで、にわかに神社にした」とある。

 境内には、知盛ら平家一門の供養塔もある。義経には冷淡な『平家物語』は、だが知盛については、運命に殉じたかのように、その最期をカッコよく描いている。

 知盛は天皇の御座舟に乗りうつり、「世のなかは、今はかうと見えて候。見ぐるしからん物共、みな海へ入れさせ給へ」と、舟のなかのゴミなどをキレイに捨てた。浮きあがってブザマな姿をさらさないため、重しとして「鎧二領」を身につけ、「見るべき程の事は見つ。いまは自害せん」と叫んで、平氏の赤旗があちこちで渦を巻いている海に飛びこんだ。

 このセリフは『平家物語』巻頭の「盛者必衰(じょうしゃひっすい)のことわり」に、遠く反響している。平氏という「盛者」は「見るべき程の事」を見たことによって、風のまえの塵(ちり)のように滅びた。(客員論説委員 福嶋敏雄)

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【用語解説】「子午線の祀(まつ)り」

 源平合戦をテーマにした劇作家・木下順二の戯曲「子午線の祀り」(昭和54年)は、黒板説などをもとに、読み手に「現行グレゴリオ暦一一八五年五月二日(略)海峡の漲(は)り潮は落ち潮へと変り始め、午前一〇時、東流最強、最強個所の時速三・二ノット」と言わせている。この東流に乗れなかったのが平氏側の致命傷となり、「十三時、潮はおもむろに西に走り始め」て源氏側の反攻が始まったと、時間単位に双方の動きをリアルに描いた。

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 ■平安から鎌倉へ

 「壇ノ浦の戦い」で平氏を滅ぼし、鎌倉幕府を開いた源頼朝(よりとも)の政権は、日本全国を支配下に治めたわけではない。京の朝廷権力は健在で、実質的には「東国政権」だった。朝廷側を武力鎮圧した承久(じょうきゅう)の乱(1221年)以降、その支配を全国にひろげた。

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