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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第1章 時代を駆け抜けた5年間(1)

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笠置寺の後醍醐天皇行在所跡に立つ歌碑=京都府笠置町(恵守乾撮影)
笠置寺の後醍醐天皇行在所跡に立つ歌碑=京都府笠置町(恵守乾撮影)

 ■笠置山 お召し即日参上、忠義誓った

 元弘(げんこう)元(1331)年5月、後醍醐天皇の討幕の企てに鎌倉幕府は、天皇の流罪や側近の処刑を決めた。東使(とうし)の上洛を知った天皇は内裏(だいり)を脱出して笠置山(かさぎやま)に臨幸(りんこう)した。幕府の大軍が迫る不安の中、不思議な夢を見た天皇は、笠置寺の衆徒から河内(かわち)の武士、楠木正成(くすのき・まさしげ)の存在を教えられた。召し出すと正成は即日、参上し、忠誠を誓って河内に帰り、挙兵した。

 笠置山は、京の六波羅探題(ろくはらたんだい)が集めた武士10万余で囲まれる。幕府は別に20万余の武士を畿内(きない)に向かわせ、正成ら天皇方の討伐をめざした。

                   

 北を流れる木津川(きづがわ)が京都や伊賀、伊勢方面に連絡し、南には柳生(やぎゅう)を経て南都・奈良へ抜ける道が通じる。京都と奈良の府県境近くに位置する笠置山(京都府笠置町)は、古来、交通の要衝として知られ、修験道(しゅげんどう)の行場(ぎょうば)として信仰を集めた。山上には巨岩怪石が連なり、険しい谷が迫る山道を歩くのは今でも容易ではない。有事の際には天然の要塞として機能する地勢を、この場所はそなえていた。

 約700年前の元弘元年。9月1日から笠置山一帯は、後醍醐天皇と鎌倉幕府の軍勢が激突する死闘の舞台と化した。

 「元弘の戦乱による兵火で寺はことごとく焼け落ちてしまった。弥勒磨崖仏(みろくまがいぶつ)もそのときに焼失したと考えられます」

 山内にある笠置寺の小林慶範(けいはん)前住職は、激しい合戦ぶりをそう話す。寺は今も花崗(かこう)岩の岩肌を彫って仏の姿を刻んだ巨大な磨崖仏が残るが、寺の本尊で、高さ10メートル以上あったとみられる弥勒磨崖仏は、元弘の戦乱で失われたというのだ。今は、磨崖仏の姿を想像させる光背部分だけが残り、不思議な存在感を漂わせている。

 河内に拠点を置く武士、正成が笠置山に赴き、初めて後醍醐天皇に拝謁したのは、鎌倉勢が笠置山に押し寄せるわずか5日前だった。

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