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【倒れざる者~近畿大学創設者 世耕弘一伝・第2部】(9)三度目の正直で代議士に「腕一本売って金になるなら…」選挙資金奔走の妻の覚悟

昭和7年に初当選した際の世耕弘一氏(中央)=近畿大学所蔵
昭和7年に初当選した際の世耕弘一氏(中央)=近畿大学所蔵

 昭和2年2月にドイツ留学を終えた世耕弘一は、母校の日本大学の講師を拝命し、学者としての第一歩を踏み出した。関東大震災の発生前日から家を空けていた弘一が戻り、妻の紀久子は平穏な「学者夫人」としての生活がようやく始まると期待したが、その思いはすぐに打ち砕かれた。

 「郷里紀州から代議士として立候補する」

 弘一がこう宣言し、帰国翌年2月に行われた衆議院総選挙に和歌山2区から無所属で立候補したからだ。

 学生時代に雄弁会での政治家然とした弁舌で全国的に名をはせてはいたが、なぜ学者としての前途が開けたばかりの弘一が選挙に打って出たかははっきりはしない。ただ、日本では第一次世界大戦後に冷え込んでいた経済が震災でさらに悪化。このときの震災手形が不良債権化して銀行経営を圧迫し、銀行の取り付け騒ぎが相次ぐなど金融不安が広がっていた。ドイツのハイパーインフレーションを見た弘一には危機的なものに映ったことは違いない。

 この選挙は最初の男子普通選挙ではあったのだが、代議士は財産家が名誉欲のためになるという考えが根強かった時代だけに、看板も財産もない弘一の出馬は無謀といえた。

 選挙運動は日大の有志がバックアップした。後輩によると、遊説弁士は東京からも若干送ったが、資金不足のため主には和歌山出身の学生たちが担った。東京では紀久子と日大関係者がポスターやビラの作製や選挙資金の調達に奔走した。

 「水きれた。たのむ」

 和歌山で遊説に駆け回る弘一の運動員からこうした電報があると、紀久子は先輩や親類、知人を回って運動費をかき集めた。紀久子は選挙の度に金策に苦労しており、後に「本当に私の腕一本を売って、お金ができるなら」と真剣に思ったことがあると打ち明けている。新聞では弘一は泡沫(ほうまつ)候補と書かれていたので、これであきらめてくれるだろうとも考えていた。

 開票結果は弘一は6833票を獲得し次々点となった。これに自信を深めた弘一は続く5年2月の衆議院総選挙にも挑み、1万393票を獲得したが惜しくも次点に終わっている。

 7年2月に行われた衆議院総選挙には政友会公認で立候補し、2万3111票を獲得してトップ当選を果たした。「三度目の正直」の裏には日大の恩師、山岡萬之助が政友会の有力者を弘一の兄、良一に紹介して選挙資金の提供を受けたこともあるといわれる。

 〈日本大學教授ニシテ校友課長、學生主事、同大學附属第二中學校総務ヲ兼ヌ〉

 初当選直後の資料は弘一をこう紹介する。弘一が教授に昇格し、日大ですでに重責を担っていたことがわかる。(松岡達郎)=敬称略

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