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【モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら】〈45〉初老男の本音とのぞみ

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千葉県御宿町の山道で出合った殺伐とした光景(桑原聡撮影)
千葉県御宿町の山道で出合った殺伐とした光景(桑原聡撮影)

物質文明を象徴する光景

 雪まじりの雨の日に月の沙漠で知られる千葉県御宿町の山道を軽自動車で走っていた。より正確に記せば、実谷(じっこく)と上布施(かみふせ)の集落をつなぐ道だ。舗装こそされているが細く、昼でも薄暗い。ビートルズの「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」を口ずさみながらハンドルを切っていると、異様な、そして殺伐とした光景が目に飛び込んできた。思わず車をとめて写真を撮った。

 山道脇に古い型の乗用車が重ねられて打ち捨てられていた。ボンネットの上には枯れ枝が積もり、腐食もかなり進んでいた。山中に放置されてから少なくとも10年は経過しているように見える。「姥(うば)捨て山」という言葉が浮かんできた。

 精神性を失った物質文明とその世界を生きる人間を象徴する光景だ。下手人は車の持ち主か、はたまた廃車を依頼された業者か。それはわからないが、そこに働く判断の基準は経済的合理性のみだろう。その他の価値観はこの怪物に食い殺されてしまった。

 古くなったモノ、役に立たなくなったモノ、壊れてしまったモノ、飽きられてしまったモノ、非合理的なモノの運命を見せつけられているようだ。もちろんモノだけではない。それはヒトの運命でもあるだろう。

 自分の運命を暗示されているようでひどく暗い気分になった私は「どうか成仏してください」と手を合わせ、その場を立ち去った。ハンドルを握りながら、自分はつくづく万物に霊が宿るとするアニミズムの世界の人間なのだと思った。同時に、古代ローマのキリスト教神学者であるテルトゥリアヌスの言葉とされる「不合理ゆえにわれ信ず」を思い起こした。合理性は科学と文明の進歩には寄与するが、それのみでは文化、すなわち人の心はひたすらやせ細ってゆく。

 平成25年の秋にビートたけしさんを編集長に迎えて刊行された「新潮75」のテーマは「超高齢社会」だった。ここでたけしさんは「日本人は老いも若きもみんな、悲惨な未来を見ないようにしているとしか思えないね」と述べ、以下の4つを提言をしている。(1)75歳以上からは選挙権と被選挙権を取り上げろ(2)姥捨て山を復活させろ(3)75歳からは医者にかかっちゃいけない(4)切腹を復活させる-。

 卓見だと思う。(1)と(4)については異論なし。(2)と(3)については、「甘えるんじゃないよ!」と言われそうだがこんなふうにできないだろうか。「姥捨て山」は果樹園や菜園に囲まれた、ペイン・ケアだけは受けられる施設にするのである。基本は自給自足。余った作物は換金してペイン・ケアの足しにする。そんな「姥捨て山」なら行ってもいいかな。そう思う。

 『随想録』を書きながら絶えず死について考えをめぐらせていたモンテーニュは、第1巻第20章「哲学するのはいかに死すべきかを学ぶためであること」に次のように記している。

 《私は人が働くことを、人ができるだけ人生の務めを長くのばすことを、のぞむ。そして死が、わたしがそれに無頓着で、いわんやわたしの菜園の未完成であることなどにはなおさら無頓着で、ただせっせと白菜を植えている真最中に、到来することをのぞむ》

 体の動く間は自分の好きな果樹や花、野菜を育て、その作業の最中に事切れる。個人的にはバラの世話をしながらそうなりたい。

 以下は余談である。関根秀雄さんはここで「白菜」と訳しているが、原文は「キャベツ」である。欧州では「赤ちゃんはどこから来るの?」という子供の質問に対して、「キャベツ畑で生まれて来るんだよ」と説明することがよくある。性愛について人一倍の関心と行動力を持っていたモンテーニュゆえ、「性行為」の暗喩(あんゆ)として「キャベツ」を持ち出したとも考えられるが、ここでは字面通りに理解しておきたいと思う。

せめて言葉を荒らげぬよう

 初老男の繰り言に少々お付き合い願いたい。61歳の現在、老眼鏡がなければまったく本が読めない。ただし、距離のあるものは裸眼の方がよく見えるので、読書を中断してほかの何かをしようとするときには、老眼鏡をはずしてどこかに置く。

 用を終えて読書を再開しようと老眼鏡をかけようとするが、どこに置いたのかすでに失念している。「メガネ、メガネ」とつぶやきながら家中を捜し回る。こんなことは日常茶飯事だ。

 ある日のこと、スペイン風オムレツを作ろうと思い立ち、読書を中断して立ち上がった。冷蔵庫から卵8個、ジャガイモ2個、タマネギ1個、ニンニク1片を取り出して調理を始めた。

 無事に焼き上がり、ラップをして読書にもどろうとするが、案の定メガネが行方不明となっている。いつものようにつぶやきながら家中を捜索するが、ついに見つからず、古いメガネをチェストの引き出しから取り出した。

 しばらくして帰宅した妻が冷蔵庫を開けて声を上げた。「ねえ、メガネを冷やしてどうしようっていうの?」。メガネは空になった卵棚に置かれていた。

 この程度なら笑い話ですむが、最近手痛い失敗をやらかした。会社帰りに自宅に近いコンビニで食材とたばこを買った。自宅に戻ってレジ袋からたばこを取り出そうとしたが見つからない。すぐにレシートを持ってコンビニに戻り、「たばこを入れ忘れませんでしたか?」と若い店員に声をかけた。店員はいったん事務室に引っ込み店長に報告したうえで、たばこを差し出してくれた。

 翌朝、通勤用カバンを開けて真っ青になった。そこには真新しいたばこが。コンビニの店員はたばこを先に手渡し、残りの食材をレジ袋に詰めたのだ。私は手渡されたそれをカバンにほうり込み、次の瞬間にそのことを忘れていたのだ。もちろん、頭を下げながらたばこを返した。前日、店員に対して乱暴な言葉遣いをしなかったことがせめてもの救いだった。

 老化の症状と進行は、人それぞれだろう。私の場合、直近の記憶の喪失が顕著なようだ。そのことを肝に銘じて暮らさないと、かかわる人々に間違いなく迷惑をかける。不幸にもトラブルが生じたときには、けっして言葉を荒らげないこと。それに尽きると考えている。それすらも忘れるようになったら…、考えるだけでおぞましい。59歳で亡くなったモンテーニュをうらやましく思ったりもする。

 モンテーニュは『随想録』の最終章に、こんな感慨を記している。

 《生命の所有が短くなればなるほど、わたしはその所有をますます深くますます十分にしなければならない》第3巻第13章「経験について」

 この言葉を胸に刻み、死に向かって一日一日を大切に生きてゆくしかない。

 ※モンテーニュの引用は関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』(国書刊行会)によった。=隔週掲載   (文化部 桑原聡)

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