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【倒れざる者~近畿大学創設者 世耕弘一伝・第2部】(5)「私の首を取りに来るまで…」命懸けの決意とドイツ語研究

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ドイツ留学中の世耕弘一氏=大下宇陀児「土性骨風雲録」(鏡浦書房)所収写真
ドイツ留学中の世耕弘一氏=大下宇陀児「土性骨風雲録」(鏡浦書房)所収写真

 世耕弘一は大正12年10月にドイツ・ベルリンに到着し、研究を始めた。留学に派遣した日本大学の記録によると、ベルリン大学の研究室で経済学だけでなく、政治学も学んだとされる。

 到着当初のドイツは第一次世界大戦に敗れた影響でハイパーインフレーションに見舞われ、市民は困窮しており、革命への懸念から日本人を含む外国人の出国も相次いでいた。弘一は日本大学学長になった山岡萬之助(後の総長)に宛てた書簡にこう書いた。

 「私のドイツ滞在の目的は現在の混乱状態の政治の実際と経済状態を見ることで、留学の大半の用件と心得ております。私の首を取りに来るまでドイツに滞在し、革命があれば革命の事情や手段を自分で実見する考えであります」

 書簡を学習院大法経図書センターで発見、解読した近畿大学名誉教授の荒木康彦によると、弘一は命懸けで敗戦後のドイツの政治や経済をつぶさに見て、考察する覚悟だった。同時に学業の基礎といえるドイツ語の研究に打ち込んだ。

 弘一は後に書いた「ドイツ留学の憶(おも)い出」で「主としてベルリンで二、三の大学教授について勉強をしたが、特に私をよく指導してくれたのはプリルーという音楽の先生で、私は家庭的にもプリルー教授の一家とは非常に親密にして貰(もら)ったので、ベルリン大学へ行くよりも、プリルー家の娘さん達と一緒に、家庭で勉強させて貰った時間の方が多かった」と振り返っている。

 プリルーはフルートの名手で、第一次世界大戦の前にはドイツ皇室の技芸員の家柄。演奏する舞台には多くの聴衆が駆けつけるほどの腕前だった。息子さんは早くに亡くなっていたが、お嬢さんが2人いて、弘一はこの2人と一緒に勉強させてもらっている。

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