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【日本人の心 楠木正成を読み解く】序章(6)生き残った楠公精神

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楠公神社の楠木正成の神像。正行像と向かい合う姿で祭られている=長崎県諫早市白浜町
楠公神社の楠木正成の神像。正行像と向かい合う姿で祭られている=長崎県諫早市白浜町

 ■各地の祭りに溶け込んで

 ドン、ドン、ドドン…。

 正月が明けた1月13日。長崎県諫早(いさはや)市の静かな農村に太鼓の音が響き渡った。それを合図に、上半身裸でワラ束を頭からかぶった男たちが、楠公(なんこう)神社(八幡神社と合祀(ごうし))の石段を駆け上がり、境内へとなだれ込む。

 「うおぉ~」

 神社の拝殿では畳1枚を盾にして、防御の姿勢で男たちが待ち構える。両者がぶつかると、あっという間に敵味方が入り乱れ、ワラが空中に舞い上がって、その粉塵(ふんじん)と熱気で周囲がかすむ。

 江戸時代から続くという同社の「楠公祭(畳破(たたみやぶ)り)」は奇祭で知られる。攻めるのが「幕府勢」、守るのは「楠木勢」。ぶつかった後、男たちは、落ちたワラをつかんでは互いの体にこすりつける。そうすることで、この1年の無病息災を祈願する習わしだ。男たちの体が真っ赤に染まり、勇壮だった表情が次第に笑顔に変わる。

 「詳しい由来はわかりませんが、楠木正成(くすのき・まさしげ)が鎌倉幕府の軍勢と籠城戦を繰り広げた千早城の戦いを再現したものといわれています」

 地元・白浜町の自治会長を務める酉越和則(とりごし・かずのり)さんはそう話す。祭りは、楠木勢の勝利を祝福したものともいわれる。

 千早城の戦いといえば鎌倉時代末期の元弘3(1333)年、大阪・千早赤阪村の山城で正成が、総勢何万という幕府の軍勢を千人足らずの兵で守ったという有名な戦である。知略・軍略に優れた正成は軍記物語『太平記』によって広く知られるようになった。大阪から遠く離れた長崎で祭りが続けられてきたことは、『太平記』が伝える正成の活躍が広く長く、人気を博していたことを示す。

                  

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