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【日本人の心 楠木正成を読み解く】序章(5)「タブー」を超えて 戦後74年、人々の心から消えず

戦後、正成は終始タブー視されてきたが、人々の心から消えることはなかった=愛知県高浜市(酒巻俊介撮影)  
戦後、正成は終始タブー視されてきたが、人々の心から消えることはなかった=愛知県高浜市(酒巻俊介撮影)  

 歴史的建造物にも使われる三州瓦(さんしゅうがわら)の産地・愛知県高浜市にある市立高浜小学校の校門そばには、大楠公(だいなんこう)こと楠木正成(くすのきまさしげ)とその嫡子で小楠公(しょうなんこう)こと正行(まさつら)の陶製の親子座像がある。

 正成像は甲冑(かっちゅう)姿の戦支度で何かを語りかけ、直垂(ひたたれ)姿の正行像は正座で両手をついて聞き入っている。後醍醐(ごだいご)天皇に背いた足利尊氏の大軍を迎え撃つ正成が、従軍を希望する正行を「足利の世になっても命を惜しまず戦うように」と諭して帰し、死地となる湊川(みなとがわ)の戦い(神戸市)に赴く「桜井の別れ」を再現したものだ。

 大小楠公像は戦後の昭和29年12月、卒業生を中心とした地元の有志が寄贈した。戦前、高浜小学校には同じ土台に正成の勇壮な騎馬銅像があったが、16年に物資不足で出された「金属類回収令」により供出されていた。

 なぜ正成の像が復活したのか。現在の像の原型を作った杉浦庄之助さんの孫、敏晴さん(70)はこう話す。

 「正成の騎馬銅像は尊敬を集めていたそうで、供出後は土台だけが残されていました。戦後、私の祖母の兄が還暦祝いで同級生と集まったとき、『あの正成像を再建できないか』という話になり、祖父に原型の依頼が来たと聞いています」

 像は三州瓦の町・高浜独特の土管焼(どかんやき)でつくられた。高浜小学校は現在、改修工事中で、像も囲いの中だ。工事後は移築される。中川健二校長は「戦前に寄贈された二宮金次郎の石像と一緒に敷地内に保管します。土管焼で正成像を復元した歴史と、卒業生や地元の方が終戦後に正成像の再建に尽力したという強い思いを残していきます」と語る。

 高浜小学校では世代を超え、正成への思いが受け継がれていくこととなった。

                  

 後醍醐天皇への忠誠と大胆な軍略、そして利を求めずに散ったとされる正成は戦前、人気と憧れを一身に集めた。正成像を置く学校も少なくなかったとされる。しかし正成は戦時中、当時の国家権力によって「軍神」にまつり上げられた。終戦後は、正成は「軍国主義を想起させる」とされ、「軍隊」や「国家の強権」とのイメージと絡み合って、正成を語ること自体が「タブー」とされてしまった。

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