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【本郷和人の日本史ナナメ読み】中世のプリンセス(上)武士の婚姻は生死に直結!?

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吉川元春像(模本、東大史料編纂所蔵)
吉川元春像(模本、東大史料編纂所蔵)

 スランプです。原因としては昨年末に父が亡くなったこと、それに伴い葬式などでお金が結構なくなったこと、相も変わらずツイッターや読書感想文などで匿名で罵声を浴びせかけられること(ぼくはメンタルが紙装甲なのです)、ルーティンワークは減らないのに年をとって体力がガタッと落ちたこと、等が考えられるのですが、どうにも仕事がはかどりません。こういう時は良いアイデアは浮かんでこないでしょうから、ありがちなことをこつこつと、しかない。そこで記すのが、日本中世のお姫さま列伝です。

 まずその前提として、お姫さまの婚姻の重さからお話ししましょう。A家とB家が婚姻で結びつく。これはぼくらが考えるより、相当に重い意味をもったらしい。そう感じたきっかけは、源義経です。義経の愛した女性といえば白拍子(妙齢の女性が男装して歌い舞う)の静御前が有名ですが、彼女は愛人。奥さんではありません。じゃあ正室は誰かというと、河越重頼という武士の娘です。

 平安末、武蔵国を代表する武士団は秩父党というまとまりを有していました。秩父というと、あれ、そんな丘陵地に武蔵随一の武士団が?といぶかる向きもあろうかと思いますが、現在の東京23区、およびその東側の土地は当時はすぐに水浸しになり、農業に不向きでした。ですから武蔵国の国衙(こくが)(いまでいう県庁)は府中市にあった。国分寺は名前の通りですが、国分寺市に建てられた。西の方が栄えていたのです。武士の本拠地の選定も同様で、丘陵地の秩父地方が好適とされました(ちなみに濃尾平野でも武士の本場は土岐(とき)や恵那など、平野でなくて丘陵地)。河越氏はその秩父党の代表です。つまり武蔵で一、二を争う有力武士だった。

 河越重頼は源頼朝のお声掛かりで、娘を義経に嫁がせました。婚姻の時、義経は源氏の一門として重んじられていましたが、やがて頼朝と対立。指名手配犯になってしまいます。重頼の娘は奥州平泉への逃避行に同道。平泉で暮らした後、夫が藤原泰衡(やすひら)の襲撃を受けると、ともに衣川の館で亡くなりました。

 さて、問題はこの時の重頼です。彼は義経の罪に連座して、義経の滅亡に先んじて誅殺(ちゅうさつ)されてしまったのです。婚姻は頼朝のお声掛かりの産物で、重頼から望んだものではない。それなのに罪人の義父、ということで殺されてしまった。頼朝にしてみれば、鎌倉に近い武蔵の有力武家を滅ぼすという政治的判断だったのでしょうが、興味深いことに、朋輩(ほうばい)の御家人たちがこの措置に異を唱えているふしがないのです。つまり、婚姻して縁戚になるということは、武士にとってそれだけ重い。運命を共にすることまでを意味していた。それから、婚姻がそれだけ大事だとすると、嫁に行ってA家とB家を結びつける女性の地位も、相当に高かったと考えられるでしょう。

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