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【門井慶喜の史々周国】≪津和野カトリック教会≫島根県津和野町 大きさは市民の贖罪の総量

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 幕末に大国隆正(おおくに・たかまさ)という秀才があらわれ、独自の尊王論でいわば津和野そのものを神道藩にしてしまっていた。政府はよほど期待したのだろう。浦上村のキリシタンのうち、もっとも信仰堅固な人々を、しかも百五十三名もよこして来た。これを津和野側は、

 --乙女峠。

 という愛らしい名でいまは呼ばれる山の上の廃寺にとじこめて、説得により、何名かを改宗させることに成功した。

 神道藩の面目躍如といったところだろう。がしかし、説得に応じなかった者は、これを一転して虐待した。食事をへらし、拷問をくわえ、着るものは薄い単衣(ひとえ)しかあたえなかった。

 何しろ山陰の山の上である。秋冬の夜には、信者たちは、ふたりずつ抱き合って寝るようになった。背中がこごえたら背中あわせになり、腹がこごえたら腹あわせになり、それを毎晩くりかえした。殉教したのは三十七名、若者も多かったという。それから五十年あまりが経過した昭和三年(一九二八)、彼らをたたえるため、この教会がここに建ったわけだ。もっとも二年後に焼けてしまったので、現在の建物は、昭和六年の再建である。

 なかへ入ると、正面に祭壇がある。左右のステンドグラスから白、赤、黄、緑…原色の光のさしこんで来るのはよくあるつくりだが、めずらしいのはその手前、外陣(げじん)というのか、信者用の空間がひろびろと畳敷きであることだった。

 あのころ凄惨(せいさん)な対立をしたはずの和洋の文明が、いまは当たり前のように共存していると、そう思いたかったがどうだろう。教会を出て、ふたたび表札のかけられた門を出れば、足の下の掘割(ほりわり)には白、赤、黄金(こがね)、黒…色あざやかな錦鯉(にしきごい)がひしめいていた。=月1回掲載

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