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【日本人の心 楠木正成を読み解く】序章(3)維新の志士たち 日本史作った「正成への思慕」

楠公社の石柱。楠公の文字が水戸藩士らの名前とともに刻まれている=茨城県茨城町(酒巻俊介撮影)
楠公社の石柱。楠公の文字が水戸藩士らの名前とともに刻まれている=茨城県茨城町(酒巻俊介撮影)

 南大阪出身とされる楠木正成(くすのき・まさしげ)(楠公(なんこう))の精神を帯びた空気を、関東で強く感じられる場所といえば、茨城・水戸の周辺になる。

 JR水戸駅から車で20分余り。水戸市の隣、茨城町長岡の穀倉地帯を見下ろす高台に、正成を祭る楠公社が建立されて約140年。社殿左手には石柱が立ち、「大日本至大至忠楠公招魂之表」と書かれている。側面には「櫻田事変烈士」として、「桜田門外の変」に関わった金子孫二郎や高橋多一郎、関鉄之介ら19人の水戸藩士と薩摩藩から参加した有村次左衛門(じざえもん)の名前が刻まれている。その手前の案内板には「水戸浪士の毛塚」とある。

 正成と水戸藩を結び付けたのは第2代藩主、徳川光圀(みつくに)だ。人気番組「水戸黄門」でおなじみの水戸光圀といったほうが分かりやすいだろう。

 水戸藩の学問「水戸学」を通して、藩内には正成の精神がいきわたる。尊王攘夷を掲げ、幕府の大老、井伊直弼(なおすけ)を襲撃した桜田門外の変を起こした水戸藩士らがよりどころとしたのも正成だった。

                  

 徳川光圀は歴代天皇を扱った歴史書『大日本史』を編纂(へんさん)する中で、天皇が並び立つ14世紀の南北朝時代で南朝の後醍醐天皇を正統とする立場をとった。後醍醐天皇に忠誠を誓った正成を崇敬した光圀は元禄5(1692)年12月、正成の墓があった湊川(みなとがわ)(神戸)に墓碑(楠公碑)を建立。碑面に自筆揮毫(きごう)で「嗚呼(ああ)忠臣楠子(なんし)之墓」と刻んだ。

 正成は太平記で活躍が描かれて世に知られたが、元禄当時は忘れられていた。再び表舞台に出た正成は人々の心をつかみ、講談などでも人気を博するようになった。光圀は正成に光を当てた立役者といえる。

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