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【話の肖像画】日本体育大理事長・松浪健四郎(72)(2)

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 ■レスリングで五輪に挑戦するが

 〈父親と同じく政治家になる夢を持ちながら、小学から高校まで柔道に打ち込んだ〉

 兄弟は全員、柔道か剣道をやっていました。大阪府立佐野高在学中に三段に昇進し、大阪大会でベスト8までいきました。高校3年のときに開催された東京五輪に感激し、まずは「次のメキシコ五輪で金」を目標にしました。金メダリストになれば政治家になるのに有利だとの思いです。金メダルと政治家が夢になりました。

 〈大学に入るとレスリングに転身した〉

 レスリングに魅力を感じたきっかけは中学生のとき、メルボルン五輪(昭和31年)で金メダルを獲得した笹原正三さんを紹介する本を読んで感動したことです。関西大レスリング部にいた長兄の啓一(後に大阪府議)も「いいぞ」と勧めてくれました。レスリングは柔道よりも競技人口が少ないからメダルに近い。

 「一流レスラーになってレスリングの本場、ソ連に留学する。ソ連共産党に入党し、帰国したら日本共産党に入る。しかし、日本共産党はレスラーをばかにするだろう。共産党とけんか別れして自民党に移って、国会議員になる」

 こんな筋書きまで考えました。今になると恥ずかしいことですが…。父は私によく「弁護士になれ。坊さんでもよい」と言っていました。理由は「お前は口がたつ。全国を説教して回ればいい」って。父の忠告は無視しました。

 五輪を目指すならどの大学か。関大も考えました。レスリングだけでなく、野球や柔道などスポーツ部の活躍がめざましかったので。しかし長兄と同じ関大レスリング部の出身で、東京五輪で金メダルを取った市口政光さんが日本体育大を勧めてくれました。日体大の方がレベルが高いというのです。それで決めました。

 〈日体大ではグレコローマンスタイル・ライト級(70キロ)の選手として活躍する〉

 東京五輪金メダリストの花原勉さんの指導のおかげで、2年生だった41年10月の全国選手権で3位、3年生になった42年6月にはメキシコ五輪代表候補の一人としてソ連遠征選手に選ばれました。夢に一歩近づいたかな、と。

 横浜からナホトカまでソ連客船「バイカル」号で2泊3日。ナホトカでの入国審査の際、ソ連の官吏がこんな高飛車な言い方をしたのを覚えています。「日露戦争は日本が勝利したのではなく、仲裁国があって休戦しただけだ」。シベリア鉄道に乗り、ハバロフスクで旧日本兵の墓地を訪れ、献花しました。第二次大戦の傷痕をひしひしと感じたものです。

 モスクワやキルギスのビシュケク、当時は白ロシアと呼ばれたベラルーシのミンスク-。当時はすべてソ連だった広大な国土を1カ月かけて回りました。ソ連選手と戦ったことで、勇ましくなった思いでしたね。

 秋の全日本学生選手権に優勝し、メキシコ五輪代表を選ぶ43年3月の全日本選手権。順調に勝ち進み、決勝リーグで宗村宗二(むねむら・むねじ)さんと対戦しました。何が勝敗を分けたのかは覚えていませんが、判定負け。相当落ち込んだことは言うまでもありません。五輪、そして政治家の夢も断たれたか、と。(聞き手 今堀守通)

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