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【日本人の心 楠木正成を読み解く】序章(2)建武の新政

白金氷川神社の境内にある建武神社。2つの朱色の社殿が建つ=東京都港区(酒巻俊介撮影)
白金氷川神社の境内にある建武神社。2つの朱色の社殿が建つ=東京都港区(酒巻俊介撮影)

 ■どんな環境に置かれても

 1334(建武(けんむ)元)年から行われた後醍醐(ごだいご)天皇による政治。護良(もりよし)親王や楠木正成(くすのきまさしげ)らの活躍で鎌倉幕府の武家政治を倒した後醍醐天皇は、天皇の直接統治による中央集権的な官僚国家の樹立を目指した政治システムに着手。摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)を廃止し、記録所や雑訴決断所(ざっそけつだんじょ)などの新設部局で一般政務や訴訟問題に当たるようにし、権力を集中させた。しかし天皇の指令「綸旨(りんじ)」による直接統治は、権力を奪われた武士階級らの不満を招き、有力武将の足利尊氏らが離反した。新政はわずか2年で崩壊、南北朝の内乱へ突入することになる。

 閑静な住宅街、東京都港区白金(しろかね)にある「建武神社」では毎年5月25日、楠木正成を祭る楠公(なんこう)祭が行われる。六百余年前の延元元(1336)年のこの日、南北朝時代の武将である正成は兵庫・湊川(みなとがわ)(神戸市)で、南朝の後醍醐天皇への忠誠を貫いて足利尊氏の大軍と戦い、壮絶な最期を遂げた。

 建武神社は白金氷川神社の敷地内にある、こぢんまりした境内社だ。場所が広くないため、楠公祭の出席は関係者十数人に限らざるを得ない。しかし、「お断りしても、参加したいとの連絡が絶えません」(井出正典宮司)という。

 今でこそ朱色の小さな社殿2つと石柱だけの建武神社だが、解体移築される昭和30年までは品川区内に威風堂々(いふうどうどう)と建っていた。戦前の10年5月25日、海軍将校の団体である水交社(すいこうしゃ)が開いた「楠公600年祭慰霊祭」がきっかけで建立が決まり、翌年11月に完成したとされる。当時は年1回の楠公祭だけでなく、月命日の25日にも参拝者が集まるほどのにぎわいだったようで、井出宮司は「軍人を中心に多くの方々の信奉を集めていたと聞いています」と話す。

 戦後、正成への評価は一変し、移築後は境内社としてひっそりたたずむ。それでも、その人気は根強く、参拝者の姿は少なくない。「地方からわざわざお参りにこられる方も多い。楠公さんへの思いは今も続いているのですね」。井出宮司は感慨深げだ。

 神社の名前となっている建武は「建武の新政」からとられた。南北朝時代、後醍醐天皇が目指した国づくりのことだ。正成はそのために知力を注いで戦い、利に転ぶことなく忠義を貫いた。後世の志ある人々は、そこに日本人としてのあるべき姿を映した。正成は命をささげてまで、建武の新政に尽くした。

 学習院大の兵藤裕己(ひろみ)教授は「建武の新政はその約300年前に中国大陸に出現した宋王朝を理想としていた」と指摘する。唐代に蔓延(まんえん)していた一部の貴族による門閥(もんばつ)政治が戦乱を経て淘汰(とうた)され、実力本位の官僚国家として誕生したのが宋だった。

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