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【話の肖像画】元最高裁判事・園部逸夫(89)(5) 旧制高校の先生はすごかった

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旧制四高時代の園部逸夫氏(左から2人目、本人提供)
旧制四高時代の園部逸夫氏(左から2人目、本人提供)

 金沢の街は戦争で焼けなかったので、四高(しこう)の校舎も無事でした。校舎の一部は現在も残っています。校長先生が外地からの引き揚げ者に理解があったこと、郷里の岐阜にも近いので、編入し、もう一度1年生からやり直しました。台北高では半分が軍隊生活でしたからね。クラスは、「文甲(ぶんこう)(第一外国語が英語)」です。

 〈一高(東京)、二高(仙台)、三高(京都)などの旧制高校は、全部で38校(外地、帝大予科を含む)しかなかった。同世代の1%しか入れない超エリートコース。自由、自治を掲げ、寮生活を基本とした人間形成と教養教育に主軸を置く。昭和25年3月を最後に廃校となり、その多くは、新制大学の教養課程に組み込まれた〉

 四高の寮(時習寮)がいっぱいで入れなかったので、私は学校が借り上げた社宅のような部屋へ入りました。金沢駅から1駅離れていて、冬になると、しょっちゅう雪で列車が止まる。そうなると、凍えながらも歩いて学校まで行かなければなりません。長靴など持っていませんから、つらいのなんのって。学校へ着いたら今度はストーブに火が入っていない(苦笑)。

 部屋もひどかった。ある冬の朝、寒さで目覚めたら、ふとんの端っこに雪が積もっている。隙間だらけの立て付けだから、外から廊下を通り越して部屋まで吹き込んだ雪が溶けずに残っていたんですね。終戦直後のことで、食べるものも着るものもない。ホントにひどい生活ですよ。そんな状況の中でも、よく本を読み、講義を聴き、勉強したと思います。

 弊衣破帽(へいいはぼう)、バンカラといった、旧制高校的な伝統も残っていました。白線帽に黒マント、高げた姿で、寮歌を歌いながら街中を練り歩く。街の人たちも四高生には温かく、待遇が良かった。でも、あまりに格好が見苦しかったのか、あるとき、友人が進駐軍のジープに無理やり乗せられ、連れて行かれたのが理髪店。伸ばし放題だった長髪を「さあ切れ」って。

 〈旧制高校の格は高く、高名な教授も多かった。四高には、哲学者の西田幾多郎(きたろう)や鈴木大拙(だいせつ)も、かつて在職していた〉

 私の時代の四高にも、すごい哲学の先生がいましたね。ちょっと人間が変わっているので、帝国大学の教授にはなれないけれど、大学の先生よりもよほどできたし、論文もすごくたくさん書いていました。東大や京大の先生になってもおかしくない、天才でしたね。

 その先生が後に私大に移ったとき、有名なスポーツ選手を入学させると聞いて、「大学はスポーツをやるところではない、勉強をするところです。そんなことをするなら私は辞めます」とたんかをきったほどです。

 父(敏(さとし)さん)はそのころ、明治大から愛知大に誘われて教授になりました。愛知大は、中国の上海にあった東亜同文書院の系譜を受け継ぎ、台湾や朝鮮、満州(現中国東北部)など外地から引き揚げてきた先生や学生の「受け皿」となるべく設立された学校です。そこにも優秀な人材がそろっていました。(聞き手 喜多由浩)=6回目は14日に掲載します

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