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【話の肖像画】元最高裁判事・園部逸夫(89)(4)死を覚悟した16歳の入隊

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 〈日本統治下の朝鮮や台湾で暮らした〉

 台北帝大の教授になった父(敏(さとし)さん)の転任で京城から台湾の台北へ移ったのが昭和11年、寒いところから暑いところへ、です。小学校2年の2学期から台北第一師範付属小で、自宅は大学の教授官舎。周りの子供は皆その小学校に通っていました。日本人が多く、台湾人はクラスに1人か2人くらいでしたか。

 中学(旧制)は台北一中、こちらも日本人中心の学校です。(中高一貫で7年制の)台北高(旧制)尋常科も受験しましたが、落ちました。結局、4年後(昭和20年)には、台北高へ行くことになったのですが…(苦笑)。

 〈台北高は大正11年、外地として初めて創設された旧制高校。台湾の李登輝(り・とうき)元総統など、同地の政財界にもOBが多い。校舎は現在、台湾師範大学になっており、その一角には旧制高校の記念室も設けられている〉

 台北高のクラスは「理乙(りおつ)(第一外国語がドイツ語)」です。主に医師を目指すコースで、台湾人の学生が多かった。京城帝大医学部出身の叔父の影響もありましたが、正直なところ、理系ならば徴兵の猶予があるのではないか、と期待してのことでした。

 ところが入学早々(昭和20年3月20日)、私たちはクラスごと学徒召集です。所属は米軍の台湾上陸に備えて組織された日本陸軍の第十方面軍。高校の理乙と文科のクラスで1つの小隊をつくり、その他2つで中隊を編成。陸軍二等兵となった私たちは、観音山の海岸側(現在の台北国際空港の近く)や大屯山(だいとんざん)の山腹で陣地構築の作業に従事させられました。

 16歳になったばかり。対戦車戦を想定し、捨て身の覚悟で爆弾を戦車の下へ投げ込む訓練や、籠もるための塹壕(ざんごう)掘りなどをさんざんやらされました。結局、米軍は台湾へは上陸しませんでしたが、そうなれば「生きていられないだろう」と覚悟しました。恐らく沖縄と同じように、悲惨な状況になっていたでしょうから。

 このとき、召集されたのは学生だけではありません。台北高の教授で、万葉集研究の大家だった犬養孝先生も同じ陸軍二等兵として召集されています。40歳前だったでしょうか。私たちが「先生」と呼ぶと、威張りくさった上官に怒鳴られるんです。「二等兵と呼べ」と…。まったくひどい状況でしたよ。

 〈終戦後の20年9月、台北高へ復学。その際に、文科へ転科した。日本への引き揚げは翌21年3月。台北高での学生生活は1年間、その半分が軍隊暮らしだった〉

 40代半ばを過ぎていた父は、ぎりぎり召集されませんでした。台北帝大で講義を続けていましたが、終戦の年の12月31日に「大学官舎を出ろ」と命じられます。多少は居座ることもできたのですが、律義な父は期限をきっちり守って、知人宅へ身を寄せました。

 引き揚げた後、私は新しい学校を探さねばなりません。空襲で校舎が焼けたり、引き揚げ者を受け入れない学校もありましたが、四高(しこう)(金沢)は校長先生が旧京城帝大の元教授で引き揚げ者に理解がありました。(聞き手 喜多由浩)

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