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【話の肖像画】元最高裁判事・園部逸夫(89)(3)

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 ■朝鮮の教え子に慕われた父

 生まれたのは、昭和4年4月1日、日本統治時代の朝鮮・京城(現韓国・ソウル)です。父(敏(さとし)さん)がちょうど、ドイツ留学中だったので、独逸(どいつ)にちなんで「逸夫」。出発前にそう命名していったようですね。

 〈一家が朝鮮へ渡ったのは、日韓併合(明治43年)の後。岐阜で裁判所の書記(現在の書記官)をしていた祖父(弘一(こういち)さん)が朝鮮の裁判所の書記になったからだ。日本統治下で朝鮮の近代的な司法制度整備は進む。地方法院(地裁)-覆審法院(高裁)-高等法院(最高裁)の三審制で法治国家の体裁を整えた〉

 そのときに日本から多くの裁判官や書記が派遣され、祖父もその一人でした。父は、京城中学(旧制)から日本に戻って熊本の五高(同)へと進学。首相になった佐藤栄作さんとは五高の同期生で終生、仲がよかった。さらに東京帝大法学部を出て、再び朝鮮へ戻り、大正14年に京城法学専門学校の教授になりました。

 〈自宅は同校の官舎。南山(京城の南に位置する山)の麓、大和町にあった。2階建ての日本家屋で、広い庭がついていた。その官舎には園部家の後、作家の山村美紗さんとロシア学者の木村汎(ひろし)さん姉弟の一家が入居している。小学校は、京城師範付属小に通った〉

 小学校は2年生の1学期までです。京城は冬になると、とても寒かった。叔父(父の弟)が凍った池で、よくスケートをしていたのを覚えています。自宅には、朝鮮式のオンドル(床暖房)の部屋もありましたよ。一緒に住んでいた祖父のところへは、よく朝鮮の両班(ヤンバン)(上流階級)の知人が訪ねてきました。

 母(志乃武(しのぶ)さん)の一家も京城に住んでいて、実家は質屋。後には京城の繁華街(黄金(こがね)町)で菓子店を開き、よく連れて行ってもらった。(街の中心部にあった)高いビルのデパートへ行った記憶もありますね。

 〈父・敏さんが教授をしていた京城法学専門学校は、大韓帝国時代にルーツを持ち、日韓併合後に朝鮮総督府へ所管が移され、この校名になった。朝鮮人学生の比率が多く、弁護士や朝鮮総督府の官吏などを養成。卒業後に、帝国大学へ進んで高等試験の司法科(現在の司法試験)に合格し、キャリアの判事や検事になった朝鮮の法曹人もいる〉

 父は、とても朝鮮人学生に慕われていたようですね。朝鮮の京城帝大には父が専門とする行政法の教授がすでにいたので、昭和11年、(日本統治下の台湾にある)台北帝大教授へ転じましたが、列車が駅に着くたびに、その土地出身の教え子が見送りに来ていました。父がデッキへ出て、それに応えていた姿を覚えています。

 最高裁にいるとき、韓国の最高裁を訪問する機会があり、昔住んでいた家を訪ねたことがあります。今はもう無くなってしまいましたが、戦後も長い間残っていたようですね。

 日本統治時代を知る人は、日本でも韓国でも少なくなりました。今回の韓国最高裁の徴用工裁判の判決も世論を意識したのでしょうが、韓国の今の世代の感覚が違ってきていると感じますね。(聞き手 喜多由浩)

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