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【倒れざる者~近畿大学創設者 世耕弘一伝】(13)人生の転機と節目…結婚、弁護士試験の断念と就職、独留学内定

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ドイツ留学に出発直前の世耕弘一氏=大下宇陀児「土性骨風雲録」(鏡浦書房)所収写真
ドイツ留学に出発直前の世耕弘一氏=大下宇陀児「土性骨風雲録」(鏡浦書房)所収写真

 世耕弘一は日本大学で雄弁会や学生演劇で活躍したが、本分たる学業でも学部3年のうち最初の2年で必要な学科試験をすべて合格してしまっていた。

 ただ、真面目一辺倒ではなかったようだ。講義でよく「一問にして二問の価値あり」と警句を吐く商法の大家の試験で冗談半分でこう書いた。

 「短文にして長文の価値あり」

 結果は落第点だったというが、ユーモアあふれる学生時代の思い出として懐かしがっている。

 〈大學(だいがく)の試験(しけん)も一年半で大部分合格(だいぶぶんごうかく)し、残りは七、八科目(くわもく)だといふ頃、弘一は相當(さうたう)の貯金(ちよきん)も出來(でき)たので、根津(ねづ)に、獨立(どくりつ)で車宿(くるまやど)を開業(かいげふ)した〉

 弘一が実名で主人公となっている昭和14年発表の実話小説「學生俥夫(がくせいしやふ)」=穂積驚(みはる)著=でも、学生時代になってからの暮らしぶりをこう書かれている。

 かつて冬場には布団に雪がつもっていた吹きさらしの家に住んでいたエピソードを持つ弘一だが、大学時代になると、暮らしもある程度余裕が出ていたようだ。

 この時期、弘一は人生の節目を迎えている。学部2年目の大正10年2月に阿久津紀久子と結婚したのだ。学生とはいえ男盛りの28歳。2年後には大学卒業直前の12年1月に長男、政隆(後に近畿大学総長・理事長、参議院議員)が誕生して父親になっている。

 弘一が学部の学科試験の合格を急いだのは、現在でいう司法試験に挑むのが理由だったという。

 後に「私は予科2年と大学2年で全部の学科試験を取ってしまって、そしてあとの1年で弁護士試験を通ってしまうという計画で、弁護士試験を3回くらい受けた」と語っている。「失敗し、もう一回受けたら大丈夫と言われ、受けようと思った」とも語っているが、結局、「もう一回」はなかった。

 12年3月の日大卒業後、朝日新聞社に就職したからだ。ただ、採用の経緯は一風変わっていた。就職願書を朝日新聞に出したが、入社試験日が大学の卒業試験と重なっていたため一度は受験を断念。ところが折り返しで試験に来るように通知があったとされる。

 一説によると、履歴書に「独創の才あり」と記入していたのが関心を引き、あらためて呼ばれて面接を受けたところ、「変わった面白い男だ」と採用、東京経済部に配属されたとされるが、新聞記者生活は短期間だった。

 12年4月末、日大からドイツ留学の内命を受けたのだ。雄弁会の活動で全国的に名をはせ、学生演劇の役者として喝采を浴びた弘一を日大は評価し、大学令に基づき昇格した後の留学生に選抜したのだ。 (松岡達郎)

 =敬称略、第1部おわり

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